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     書 評 課 題 (第2回)  
  辻大介ゼミ7期    
 

本田透 著
『萌える男』筑摩書房、2005年

萌える男は正しいの?

 近年話題になっている「萌え」。2005年にユーキャンの流行語大賞に選ばれて以降、2006年の電車男のブレイク、メイドカフェやアキバ系といったオタク文化の紹介などメディアで頻繁に取り上げられている。浜銀総合研究所の調査によると、「萌え」市場は2003年の時点で888億円にも上るという。この「萌え」という言葉を考えてみると、電車男の中に出てきた、主人公のようなオタクの人が使う言葉であるというイメージが強かったが、最近ではアニメやコミックなどの二次元に存在する人のみならず、現実の三次元にいる人に対してもこの「萌え」という言葉が使われるようになった。「萌え」とは一体どのような状態なのか。それを心理学的な効能、および社会学的な効能について分析したのが、本書「萌える男」である。
 著者自身がオタクと称しているため、本書の内容は実にリアルなオタクの視点から描かれている。まず、本書では萌えの定義を「脳内恋愛」とし、「萌える男」とはバブル時代に滅び去った純愛を求め続けた末に、三次元の世界(恋愛資本主義システム)には純愛はないと悟り、二次元の世界(オタク市場)にやってきた男たちと規定している。萌えに必要な能力は、キャラクターの内面を構築するための想像力のみであり、オタクの特徴として知られるフィギュアなどのアイテム類はその想像力を増幅させるための燃料の役目だというのだ。
 さらに「萌え」という現象は近年になって出てきた流行の一種だと考えていたのだが、本書によればそれは遥か昔の古代から存在していたようだ。古代ギリシャのピグマリオンが、美の女神アフロディーテに恋焦がれるあまり「理想の女性」の彫刻を制作し、その像に恋をしたという。これが「ピグマリオニズム(人形愛)」の由来であり、「フィギュア萌え族」と同じであるというのだ。さらに、ゲーテやダンテも「萌え」の先駆者であり、宮沢賢治もまた作品の中で「萌え」を貫いたうちの一人だという。これだけ考えると、「萌え」は誰の中にでも存在し誰もが経験をしているように感じる。萌えは宗教(神)が死に、神に代わる「恋愛」も死んだ現代の日本において必然的に生まれてきた信仰活動といえ、希望と癒しを与えてくれるものだという。
 しかし、実際には恋愛資本主義システムからあふれた人だけが萌える男ではないと私は考える。「脳内恋愛」という点から見れば、誰もが経験することであり、誰もが通る道だろう。萌える男のことを「現実逃避」と非難したり、「犯罪予備軍」だと主張するメディアにも過剰な点があると感じるが、萌える男自身にまったく非がないわけではない。メディアのイメージとして植えつけられた「気持ち悪い」という意識もあるが、実際に容姿やファッションにこだわらない所をみるとどうしても変だと感じざるをえない。その積み重ねが萌える男に対してのマイナスイメージを増長させてしまうのではないか。著者自身がオタクであるため、どうしても萌える男擁護としての姿勢を感じてしまい、萌える男を美化しすぎている感が否めない。萌える男は正しいと著者は主張しているが、恋愛資本主義システムへのコンプレックスを盾にただ言い訳をしているだけではないだろうか。

2007/04/01
[ 評者: 宮本 千種 ]

 
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