小浜逸郎 著
『「男」という不安』PHP新書、2001年
今考える「男の値打ち」
少年犯罪、ひきこもり、ストーカー、中高年自殺といった現代の社会問題を引き起こすのは、大半が「男」である。「男が危ない」と言われて久しいが、男の何がどう危ないのか、また何が彼らをそうさせるのか。他方、いまの日本の女たちは男など頼りにせず、決断と自立を目指しているかのように多くのメディアは報じるが、それは本当か。
本書は、男が現在直面している状況を多面的に照らし出し、その上で見直されるべき「男の値打ち」「男の生き方」を模索する。
第1章で、筆者は「戦争や革命など、男性的な攻撃力の発揮の場所がなくなっている」「産業構造が高次化して、職業面での男女の差異がさほど意味を持たなくなっている」「性の自由の観念が女にも浸透し、女の性欲が男並みに公認されるようになっている」「社会でも自己実現したいと考える女が増えたために、家事育児の平等負担の主張が強まっている」という4つの社会情勢を打ち出し、「男らしさ」という価値概念が現代において必要とされているのかを検討する。そして、たしかにマッチョ的な男らしさは現代では通用する機会は少なくなったかもしれないが、それは困難に立ち向かっていく気概など、精神的なレベルに昇華されたものとして相変わらず期待されていると指摘する。さらにフェミニズムのように男女の差異そのものをあってはならないものとすることは無理があり、男が主として外の仕事に打ち込み、女が主として身辺のケアに精を出すという形態は、男と女の本来的な傾向に基づいて作られてきた知恵と構造の産物であるとする。このことから、筆者は何らかの規範的なイメージ、「らしさ」は必要であると説く。
第2章では、男の子が「一人前の男」になるために抱えている普遍的困難と時代的困難を探り、それらの困難の克服にとって欠くことのできない条件を考察する。少年犯罪やひきこもり、義務教育の長期化を例にとり、それについてのこれまでの論点に意義を唱えながら、「18歳の時点で『通過儀礼』を設ける」「『心の教育』よりも労働経験によって『身体の教育』を実施する」というような、早く「一人前の男」にするための提案をする。
さらに第3章で筆者は、男女の根源的な非対称構造を見つめながら、男にとって恋とは何かを説く。そして男は女の「性戦略」の構造をよく見極めて、自分なりの仕方で自分にあった「いい女」を探し求めなくてはならない時代を不可避的に生きていると結論付ける。
最後に第4章では、「中年男性」にスポットをあてる。家庭を持つ男に対して、家庭と仕事の二律背反のようにみなす時代は終わったと指摘し、これからの男たちは、家庭にも仕事にも自分の充実の場所と責任の所在を探し当てなくてはならないとする。また、筆者自身の体験を交えながら、父親は、この世界には、必ずしも一つの生き方に固執しなくても、別の世界、別の価値観があり得るという、より広い方向に子どもの心身を開かせることが重要な役割だと述べる。
以上のように、本書は男性問題を網羅的に述べており、一貫性がない。筆者は、時代は変わっても、男女の関係に変わりえないものが底流にあり、その底流を見直すことで「新しい男の生き方」や「よりよい男女のありかた」がみえてくるとするが、かなり主観的に述べられている部分も多く、言いたいことが散漫していて結局の結論が見えにくい。しかし、これまで定説とされていたことを、多くのデータに基づいて異論を唱える姿勢は評価でき、本書の最もおもしろい部分である。
2007/04/13
[ 評者: 松下 千桂 ]
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