大塚英志・大澤信亮 著
『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、2005年
アニメ・まんが史の中のジャパニメーションと暴力表現の結びつき
本書では、ジャパニメーションとハリウッドアニメの違いを、キャラクターの身体性あるとし、作品の暴力表現について、手塚
治の考えを元に述べている。
「身体性のないキャラクター」は、喜劇映画で成立し、アニメに持ち込まれ強調されるようになった。本書では、ハリウッドアニメの記号的表現は日本に伝わるが、日本でのアニメ・まんがは、「キャラクター」は着ぐるみで、その中にもう一つの「キャラクター」がいるという構図であることを『ミッキー忠助』をあげて説明し、それがジャパニメーションの本質だと述べている。
戦時下のまんがが採用した特徴として、著者は4つ上げている。1、科学的なリアリズム2、記号的な身体性3、戦局を見る視点4、映像的手法である。2の中で、キャラクターという存在は決して「死なない」「傷つかない」ということが重要だと述べる。これを「身体を持たない」と著者は形容し、ハリウッド作品の影響からくる表現だとしている。しかし、手塚の『勝利の日まで』を例に、そこで兵器だけが写実的に描かれていることをとりあげる。その理由を、戦時下のまんがのリアリズムが兵器等に特化していたこと、そして大阪で空襲を受けた手塚の個人的体験が反映されているとしている。この経験から、手塚は「死なないキャラクター」と死んでしまう自分たちの乖離に気づき、「キャラクター」に「死にゆく身体」を与えることができた。『ジャングル大帝レオ』で、戦時下の手塚にあった身体への暴力性がキャラクターの身体性として転化している。これが戦後のアニメ・まんがの始まりだったと述べる。
著者は、ミッキーマウスを例にあげ、いっさいの具体性や固有性から隔離されているものがキャラクターの特徴であったとする。そして、日本のアニメ/まんが史は、キャラクターを現実に近い「世界」の中に置き、人格と身体という固有性を与えた点が特異だったと述べている。
戦時下の表現としてあった兵器的なリアリズムを、手塚は受容しなかった。これは手塚が自身の作品の中に暴力性を見つけ、それへの抑制の一つでもあったとし、『アトム大使』のキャラクター設定を例に挙げている。しかし、『鉄腕アトム』と同年代の『鉄人28号』というかたちで、手塚が抑制した兵器的リアリズムはアニメ・まんが表現の中に潜在的に組み込まれたと著者は考える。手塚の作品では、「記号的なキャラクター」と「身体性」がうまくバランスがとれていたが、70年代以降、少年まんがをはじめとして、身体性を再受容していく過程で、リアリズムに対するタガが外れていった。
今日の作品に、殺す側に立ったときは残酷な表現ができ、グロテスクなものに対する強い嗜好があるのに対し、主人公の身体は「死なない」という傾向を見ている。著者は、死にゆくキャラクターの矛盾を抱え込めないことが、戦時下の作品の最大の特徴だったと言いなおし、今日の作品は、先祖返りしていると述べる。また、これが「世界に誇る」と言われる日本のアニメ・まんがの現状であるともいう。
様々な作品や作家を例に挙げ、アニメ・まんが史を述べている点で、本書はとても分かりやすく「ジャパニメーション」とは一体何なのかということを定義付けている。しかしジャパニメーションになぜ暴力性が必要だったのか、また必要とされているかについての記述はなされておらず、アニメ史の解説に留まっている。本書を読んで、リアリズムになぜ暴力性が必要なのかという疑問が湧いてくる。
2007/03/31
[ 評者: 鶴田 麻衣 ]
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