松田美佐・岡部大介・伊藤瑞子 編
『ケータイのある風景』北大路書房、2006年
ケータイの利用と変容するマナー
マナーはその時代により変容するもので、ケータイを携帯するようになりそのマナーについても問題視されるようになって来た。1990年代初めに公共空間でのケータイの利用が問題視され「公/私」という区別をますます意識するようになり、秩序化されていたものが乱され暗黙の了解として空気を乱すということが約束事になってしまう。
そして時代が進みケータイを若者が所有し普及しだすとマナー違反は若者だとして見られ認知されるようになってくる。だがそこで注意したいのはケータイをもちだしたのは仕事上使用するビジネスマンであると、筆者は述べている。そしてその使用が新幹線(グリーン車)であったりホテルやゴルフ場などであったのが、今日問題にされている原因であろう。
また社会人のように「何か用件があって使用するものだ」という常識と、友達としゃべるためという「おしゃべりを目的とする」こととでは常識の違いという点で問題が起こった。若者は仲間以外の人間つまりは「目の前の他人」に関心がないからケータイを使うのか、ケータイが「目の前の他人」との関係性を損なうのかといったことには触れられずに、結果として若者のマナーの悪さであることとケータイの利用が直感的に結び付けられ、社会問題として取り上げられてきたという。
確かにその点に関しての因果関係はないがしろにされてきたが、公共空間で目の前の他人に関心がないからそのかわりとして関与シールド(その場の関係からの逃げ道)であるケータイを利用するというのは何も若者に限ったことではないだろう。大人が電車の中でどこかれかまわずメールであったり電話をしているのは見かけないことはない。
非言語的なふるまい(例えば視線によるもの)でケータイで通話している人をチラッと見たりにらんだりすることは、公共の場を維持するためであり、それを感じ取り使用者はその社会的状況に対し、関与と配慮をするように表示するのは空気を読むといったことにも通じるところがあるだろう。
歴史的に見て見ると、電車内でのケータイのマナーであるとか利用についての記事は2003年以降減少傾向にあり、新しい技術に対する多用な解釈がひとつの解釈へ収束し、その規範が秩序化されたといえるだろう。
そして、若者のつきあいの多様化により孤独を感じるということは付き合いの表面化や希薄化ではなく、選択的関係を好み「状況に応じた友人の選別」を行っていると述べている。「自我」構造を見直し、ケータイは都市空間を「接続されていない私」に絶えず向かい合わねばならない過剰な儀礼空間に変容したというのは興味深い。
2007/03/31
[ 評者: 河合 智也 ]
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