鷲田清一 著
『ひとはなぜ服を着るのか』
日本放送出版協会、1998年
他者の視線で微調整される〈わたし〉というイメージ
「人はなぜ服を着るのか」
このタイトルがそのまま本書のメインテーマとなっている。
人はなぜ服を着るのか、この質問に対して返ってくるきまった答えの1つに身体保護説がある。変化の激しい自然環境から身を守るため、という衣料の機能的なはたらきを理由にしたものだ。しかし、実際わたしたちが身につけている衣料を考えた場合、ネクタイやハイヒール、あるいはアクセサリーなどそれだけでは説明できないものの方が多い。現在、私達が装いとかファッションと呼ぶものには機能性ということだけでは説明がつかない要素が多く存在するのだ。
そうすると次に出てくるのが、なぜひとは自分の身体にこのように様々な細工を加えるのか、という疑問である。その核心には、ひとはなぜ自分のありのままの身体に満足できないでそれにさまざまな加工や変形や演出をほどこすのか、どうしてそんなに手の込んだことをするのか、という問いも含まれている。なぜなら、身体を加工し変形することは、与えられた身体になにかしら不満を持っているからだと考えられるからだ。自分の身体と自分が属している社会でのモデルとを照らしあわせ、そこからいくらか隔たったものとして自分の身体を意識しているのではないだろうか。自分の身体に向けられる他人の視線がひどく気になるということもこういうところに理由があると考えられる。
被服や身体装飾から発信される情報は、それらを身に付けている人物と一体とみなされ、その人物についての情報と解釈されるという。服飾が発信するのは記号的情報と象徴的報の2つである。服飾によって伝達される記号的情報は一義的なものであり、観察者よって違った見方がなされることはほとんどなく、年齢、性別、所属団体など主として社会的属性に関連したものである。一方、服飾によって伝達される象徴的情報は抽象的でかつ多義的である。このため、その服飾を身に付けている人の意図が観察者に伝達されるとは限らない。また、同じ服飾であっても観察者によって違った見方をされることも少なくない。
私達はおしゃれをすることで<わたし>という個性を打ち出そうとしている。それは、昔に比べ自分流を堂々と通せるようになり、均質化が進んだ社会のなかでは他者との差異や「個性」を打ち出さなければ自分の存在を自分で確証できないからである。しかし、その差異や個性ですら他者の視線を意識して微調整される。ひとびとは互いに相手の鏡となって自らのセルフ・イメージを微調整し、他者と全く同じではないけれど他者とほぼ同じ<わたし>をつくりあげているのである。これが微妙な差異に人がこだわるゆえんである。
誰もが一度は考えたことがある「アイデンティティ」や「自分らしさ」をファッションという身近なテーマを扱いなが読み解く本書はよみやすく、また、タイトル自体が本書のなかでもメインで扱われる問題なため読む前からテーマに入り込みやすいことも本書の魅力である。
2007/04/04
[ 評者: 岡部 亜紀 ]
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