北田暁大 著
『嗤う日本の「ナショナリズム」』日本放送出版協会、2005年
アイロニー的ポジショニングとそれを覆う空気
「『弁証法』について具体的な例を挙げながら説明しなさい」。この問いの模範解答がまさに本書である。本書は現代の若者文化における二つのアンチノミー、つまり「アイロニーと感動思考の共存」(2ちゃんねる化する社会)と「世界思考と実存主義の共存」(クボヅカ化する日常)がいかにして生成したのか、その両者はどのような関係を持ち、いかなる政治的状況を作り出しているのかという問題構造を「弁証法」を用いながら粘り強く考察していく。
著者がこの二つのアンチノミーを分析する方法として「弁証法」を用いた理由は、アイロニー的感性の構造転換にある。「常識的に考えれば矛盾でしかない『アイロニー』と『感動』の共存であるが、アイロニーもまた歴史的・社会的に変容せざるをえない」と著者は言う。本書では、一見すると矛盾しているように見える二つのアンチノミーの構造を、アイロニー的感性の構造転換と関連づけ、歴史的由来を紐解くことにより分析している。具体的には、連合赤軍事件の総括と呼ばれる特異な反省の形態の成り立ちから、1970年代〜80年代初頭の消費社会的アイロニズム、80年代半ば〜90年代初頭の消費社会的シニシズム、現代のロマン主義的シニシズムへと展開されていく。このような論理の組み立て方は複雑な問題(本書のような二つのアンチノミー)を読み解く上でも有効な手段であろう。なぜなら、現在の現象だけを見て、若者を「右傾化」「保守化」とイデオロギー的に裁断するだけでは、若者の中にある様々なポジショニングを可能にする「構造」を理解することはできないからだ。
著者は現代の日本人の内面の形態において、歴史的なアイロニーの変容を経て「繋がり」の社会性が上昇したと言っている。そのことを「2ちゃんねるにおける反朝日の雰囲気」を例に説明している。「『朝日』が何を書いているか・意図しているかはじつはそれほど重要なことではない。いかなる内容の記事でも『朝日』を嗤うコミュニケーションのネタとして機能してしまうのだ。嗤いは、もはや批判的アイロニーとしての機能を喪失し、内輪空間の『繋がり』のためのコミュニケーションツールとなっているのである」。「繋がり」のためにマスメディアをネタにすること自体は別段問題ではない。問題であるのは「朝日を叩けばよい」というある種の「空気」のようなものが我々の回りを覆いつくしているように思われることである。私たちは、場の空気に流されやすい内面と社会性を併せ持っている。現在、我々は様々な歴史・経験を経て、それぞれ固有の思想を持ち、多くのリテラシーを備えていると考えているが、そういう思想(固有の思想を持つことを強要する考え)に縛られていることにさえ気づいていないのではないだろうか。
2006/10/21
[ 評者: 村尾 滋人 ]
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