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     書 評 課 題 (第1回)  
  辻大介ゼミ7期    
 

橋元良明 著
「変容する現代のコミュニケーション」
『教育と医学』49巻7号(慶應義塾大学出版会)、2001年

グルーミング・ケータイ

 本書は、人と人とのコミュニケーションを中心に、現代までのコミュニケーションの歴史の始まりから丁寧に記述している。さらに、携帯電話やインターネットの登場により、コミュニケーションがいかに変容してきたかを述べている。
 初めに、現代までのコミュニケーション(高度な分節音声言語、文字、印刷術、新聞、写真、電信、電話、キネトスコープ、ラジオ、テレビカラーテレビ、インターネット)を暦年スケールであらわし、いかに近年の情報技術の発達がめざましいかをわかりやすく書いている。コミュニケーションの歴史を一年間に縮めて表すと、文字の発明以降の他のメディアは年末五日間の出来事になるようだ。これは、人類がいかに長い期間、音声言語だけに依存していたかを如実に示している。ここから筆者は、「電話というメディアがこよなく愛される背景には、根強い「声」のコミュニケーションへの愛着があるからである」と説明している。確かに、簡単な連絡などは携帯で済ましてしまうが、やはり大切なことや重大なことは直接会って話したいだろうし、悲しいときにはメールという手段では物足りず、声が聞きたいと思う。機械文明の世の中でも、血が通っていない機械よりは体温が感じられるコミュニケーションを大切にしたいのである。
 そして、現代のコミュニケーションの実態を「情報行動の調査」をもとに描き出している。最も長い時間を費やしているのが、マスメディア接触型情報行動であり、直接情報行動のうち「人と話をする」は全情報行動中10%に満たない。さらにインターネットの侵食により、生活時間配分の構図に変化が生じ、コミュニケーション能力の低下をもたらすという。ここでは、米国の心理学者クラウトの実験をもとにインターネットが及ぼす人への影響が懸念されていると筆者は述べているが、実際には社会的交流の幅が狭まるということはほとんどないのではないのだろうかと私は考える。
 ネット依存と呼ばれるまでにネットに依存し、基本的な日常生活までおろそかにする人は別として、インターネットは瞬時に世界と繋がることができる。それはつまり、身内だけで集まって小さなコミュニティを作ることも可能ということではないだろうか。リンク集はその役割を果たしているし、現在は、mixiなどのSNS(Social Network Service)というコミュニティもある。最初に、mixiに参加するには知り合いからの紹介が必須となるが、入ってしまえば、自分専用のページを持てたり、自分がかつて所属していた社会のコミュニティ、興味のあるコミュニティなどに加わることができる。そこでは実名をオープンにしている人も多く、昔の友人とも新たに繋がることも可能である。このように、何もインターネットは閉鎖的なばかりではない。使い方によって、開ける道が違うだけではないだろうか。
 また、携帯電話はコミュニケーション空間を変容させるが、中身は表層的になるという。しかし、これは逆ではないだろうか。筆者は高頻度で連絡を取り交わす特定の4,5人のことを「心理的同居人」と呼んでいるが、むしろ表層的ではなくさらに深い関係になるのではないだろうか。メールの内容は「特に用件のないおしゃべり」だが、猿のグルーミングと同じで人にとって必要なことなのだ。家族との関わりが減ったのも、携帯の誕生により、友人とのかかわりに比重を置くあまりの事なのかもしれない。いずれにせよ、悪い影響ばかりではないと私は考える。
 また、筆者は、本当に携帯電話やインターネットが悪影響をもたらすのか、その逆なのか、答えは数年先に示されるであろうと結論を曖昧にしている。本書では、比較的有害論寄りの箇所が目立つがあえて結論を明確に示さなかったことで論文としての価値が低くなっているのではないだろうか。

2006/11/07
[ 評者: 宮本 千種 ]

 
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