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     書 評 課 題 (第1回)  
  辻大介ゼミ7期    
 

中西 新太郎 著
『若者たちに何が起こっているのか?』
花伝社、2004年

幻想の中の自分と他者

 本書では、「自己」確立のための「変化」について論じられている。その点を中心に内容を紹介し、評していく。 
 著者は、自己表現は、パフォーマンスとしての性格を持っているとしている。自己形成には、「キャラを立てる」というという、キャラクター表現が必要とされるのだ。
 消費文化の中で、自分を作る作業は、「自分」を使って、自分のスタイルを決めていく作業である。消費社会のあらゆるツールは、自己操作の技法と結びついている。ゴスロリ、コスプレ、追っかけ等は、他者に対して自分を素直に表現することの難しさと同時に、それでも、他者に「自分を見てほしい」という強い欲求の存在を示唆している。これは、自分がそういうことをしているというカテゴリーに属することで、「自己」を他者に認識させているということである。若者が、自分たちの存在を認知してもらいために必要な「自分らしさ」は、「〜系」といった分類枠に、自分を当てはめる帰属の指標であるという。
 著者は、そのように自分をカテゴリーに当てはめてしまうことは、「オリジナルな自分」を探すことをより困難なものにすると論じる。それを具体化しようとすることは、主観的な性格を持ち、自分にとって都合のいいもので周りをかため、思い通りにならない現実を回避しようとしてしまう。自分の想念として望ましいものをイメージ対象として対象化し、自分の世界に定着化させる。つまり、自分の持っている幻想を「生ききる」ことが追及される。著者は、幻想の対象化が文化的に不可能ではなくなったことが問題であると述べる。ネットやゲームなど、メディア環境の変化は「幻想の他者」づくりの文化的土壌を肥やし、それが表現手段とともに広がってきたという。
 「キャラを立てる」とは、他者からみてそれとわかる「自分らしさ」を表現するために必要なことである。この作業は、そういったカテゴリーを組み合わせることで、自分のポジションを表示し、安心して他者に受け入れてもらえるようにしている。そのカテゴリーから、本当の自分は、はみ出す存在であったとしても、それを目立たないように「自分を消す」という作業をしている。「自分が自分としていまいる姿で社会に認めて欲しい」という欲求は、「強者としての自己」実現と摩擦を起こし、「守りたい本当の自分」の探求・発見が、「他者に負けない自分」のあり方の確立へ変貌していく。「強くなりたい」、「本当の自分」の居場所を作ろうとする欲求は、内面的「転換」を強い、自己はむしろ、望ましい性質や能力を保証する情報・行動スタイルを獲得するための形式として機能する。「本当の自分」を手に入れるため、自己を切り替える等の変身での自己表現、自己規定がなされると述べられている。
 若者は、「自己」を確立するときに、「今の自分を認める」或いは「認めてもらう」ということよりも、「認められる自己」の形成に努めるようだ。しかしその反対に、「幻想の他者」の存在を求めている。本書から、自己を変化させる者と自分の受け入れることのできる他者にしか応じない若者の存在がいえるのではないだろうか。「自分らしさ」を求める一方で、幻想の自分と他者、互いの存在のバーチャル化がなされているように感じる。
 本書は、若者について幅広く述べてあるため、1章1節が短いことが欠点である。そのため、具体的なデータがやや欠けている。述べられていることが本当に若者に起こっているのか、どこからそれが窺えるのかという疑問が湧いてくる。しかし、「若者とは」と幅広くとらえる分には、本書はとても優れているのではないだろうか。

2006/10/28
[ 評者: 鶴田 麻衣 ]

 
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