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     書 評 課 題 (第1回)  
  辻大介ゼミ7期    
 

難波功士 著
「「族」から「系」へ」
『関西学院大学社会学部紀要』98号、2005年

変化する「意識」と変わらぬ「属する安心感」

 何らかのファッションスタイルや行動様式を共有している若者集団は、かつては「〜族」と呼ばれていたが、近年では、「〜系」と括られることが多くなっている。本論文では、なぜ現代では「族」という言葉が使われなくなり、代わりに「系」という言葉が使われるようになったのか、その変遷について、ユースサブカルチャーズ(以下YS)を概観しながら書かれている。
 「〜族」という言葉は、著者によれば、1950年ころから現れ始め、若者独特の文化(YS)としてみられるようになったという。しかし、1972年の富山事件をきっかけに、それまでマッハ族、サーキット族、カミナリ族など、さまざまな呼称で呼ばれていた集団が「暴走族」の語に収斂され、また、暴走族が70〜80年代大きな社会問題としてあり続けたため、「〜族」≒YSという概念から、「〜族」≒暴走族の略称としてみられるようになった。
 こうして、「族」が二輪車・四輪車を媒介としたYSへと限定されることにより、音楽やファッションの嗜好を共有するYSは、「〜系」と括られるようになっていく。このことから、「族」から「系」への移行については、「族」がクルマ関連の逸脱行為(者)群と等置されたという外在的要因が考えられる。この「〜系」は、かつての「〜族」ほどのユニフォーミニティーはないが、緩やかな規範や何らかのテイストを共有しているYSとして、若者同士のコミュニケーション、もしくは若者に対するレイベリングの場で多用され、一種の流行語と化し、90年代に数多く登場した。ストリート系、裏原系などがそれである。
 また、日本の若い女性のスタイルは、「ギャル系」や「お姉系」、「JJ系」などと、「系」という言葉で括られている。これらは、一続きに関係するものをさす「系」とは言いがたいが、その中で、一人一人が外面のアイデンティティー(差異)を持とうとしているのだという。
 では、「族」と「系」の違いは何なのだろうか。著者の引用する野村雅一によれば、日本のさまざまな「系」は、イギリスのモッズやパンクなどのように、境界のはっきりしたサブカルチャーのトライブ(族)ではない。一人の人間が何らかのYSに四六時中コミットしているというよりは、その日の気分や、その日に会う相手によって自らの系を取捨選択し、随時変化させていく、もしくは並存させていくのが若者の現状なのであろう、という。つまり、極めて求心力の強い「族」よりも、今の若者は緩やかな「系」のほうが楽でいいということだろう。
 2003年度版『現代用語の基礎知識』では、「〜系」の解説が、「@〜の類。Aその状態、様子」と記されているように、もはや「〜系」は、何らかのアイデンティティを表すというよりも、その場の様相や心境を示す語に化したと言える。
 だが、辻大介が示したように、個々人にはそのコアとなる部分が存在し、そのコア同士が結びつくのが「全面的で親密な対人関係」であり、それ以外は「部分的で表層的な対人関係」であるという二分法は、すでに今の若者を論じる際のモデルとして相応しくない。今日的な若者像においては、「部分的だが表層的でない対人関係」も成立しうるのである。このようなことからすれば、「系」としか呼びようのない繋がりやまとまりが、今そこにあるがゆえに、「系」という語が90年代の日本社会において顕在化、一般化したと言えるだろう、と著者は結論づけている。
 「系」は、「族」とは違い、境界はあいまいなものである。これは、はっきり区別されることを嫌い、あいまいさを好む現代の若者の特徴を表しているのではないだろうか。
 この現代の若者の特徴を見るための切り口として、なぜ「族」から「系」へ変化したかを選んだのは非常に興味深く思える。昔も今も若者は、「族」であれ、「系」であれ、何かに属していなければ、安心できないのだろうか。

2006/10/28
[ 評者: 清水 悠貴 ]

 
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