畠中宗一 編
『現代のエスプリ468 対人関係の再発見』至文堂、2006年
富裕化社会の副産物
現代の対人関係を、対人関係の基礎、対人関係と発達、対人関係と組織・コミュニティー、対人関係と支援の章に分けて、分析・考察した論文が集められたのが本書である。なかでも興味深いのは、畠中宗一のいう「富裕化社会における対人関係の成立」だ。
畠中は、富裕化社会を以下のように説明している。
第一に、利便性・快適性を追求する社会である。具体的には、組織における人間は機械のように振る舞い、主体性を喪失する傾向が強くなるということだ。生産的なラインでは、人間が判断をするより機械のように振舞う方が生産性は高い。
第二に、個人単位・家族単位で生活を自己完結できる社会である。ここから、たとえばひきこもり現象の多発化は、富裕化社会の副産物として理解できることになる。貧困な社会では、人々はお互いに助け合わなければ生活が成り立たないが、富裕化社会では、対人的なコミュニケーションを回避しても生き延びられるからだ。
第三に、課題達成型の価値観を重視し、メンテナンス機能を軽視する社会である。メンテナンス機能とは、家庭で言えば食器を洗うことや、衣類の洗濯、トイレ掃除などがそれにあたり、これらを分担することで家族の関係が生まれてくる。しかし、富裕化社会の親は、これらの役割を子どもに与えず、家族関係の希薄化を促しているという。
これを受け畠中は、富裕化社会の対人関係を、「主体的な人間関係を抑制し、対人的なコミュニケーションを回避する傾向を促し、対人関係を発達させていくための基本的な条件を奪うように機能している」と定義している。
この富裕化社会が大学生にもたらした希薄化について、畠中は、大学生は人とのかかわりを個別利害の離合集散と認識しており、個別利害のためには簡単に人を裏切ると述べている。また、人とのかかわりよりも自尊感情が重要であるため、不安定な自己を隠蔽するために、簡単に人とのかかわりを解消する。このように、私事化が肥大化する社会では、人のことを考えるという発想が芽生えにくい。形式的に辻褄を合わせようとしたり、主観的な関心だけで評価したりしていては人の気持ちは理解できないと、人を思いやる感情の欠陥を指摘している。
これに対して、学生カウンセラーの水戸部賀津子は、「対人関係がない」と相談を持ちかける学生の存在を挙げる。この問題は、上にも述べたように「ひきこもりを可能にする社会」や、本当にひきこもらなくても過ごしていける大学、つまり、全く人と接しないわけではなくて、機械的な関係「我―それ」関係だけをやっていれば生きていけるという環境に起因していると述べている。
これらは、おひとりさまなどとよばれる「自立した」人々の本質を見抜く根拠になりえないだろうか。自立した、なんでも一人でできるといったこれらの人々は、裏返せば人間関係から逃れることのできる、富裕化社会が作り出した副産物なのかもしれない。
本書では、人間関係が希薄化していることを前提に論が進められているが、その根拠となるデータの例示がない。それがあればより説得力を増すだろう。しかし、富裕化社会によって変化した家族の役割や、友人関係について見直す優れた書であるのはまちがいない。
2006/10/21
[ 評者: 金本 久美子 ]
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