浅見克彦 著
『愛する人を所有するということ』青弓社、2001年
嫉妬という名の罪
「愛する人を所有するということ」。私はこのタイトルに魅かれてしまった。なぜなら、少なからず私にも同じ経験があったからだ。好きな人には常に自分だけを見ていてほしい。相手の行動を制限したり、細かく相手の状況を知りたがったり、異性の友人に近づけない、といった「所有」の試みを、恋をした多くの人々が経験したことだろう。
筆者はこう語る。「恋愛は一つの罪を背負っている。所有という罪を。そして、互いの心と体に傷を残す暗い影を引きずっている」。この作品の全ては、この定義をベースに話が展開されている。もしも私が、愛とはなんだと尋ねられれば、「美しく切ないものだ」と答えるだろう。常識もまた「人を愛することは清らかで美しい。恋愛は必ずしも甘く心地よいものではないし、時にそれは失敗と挫折によって辛さや苦しみをもたらすだろう。しかし、その辛く苦しい状態に耐え、あるいはそれを顧みずに愛することを含めて、愛は清らかで美しいことなのではないか」と主張する。
だが、筆者はその答えに疑問を投げかける。「愛に伴う精神の混乱と憔悴から逃れようとするとき、人は愛する他者を所有することへと導かれる。愛する他者を自分につなぎとめ、その意識と存在を掌握し、望どおりの結びつきを実現することで、不安や焦りや苦悩から逃れようとする」。愛することと所有すること。愛に捕えられたとき、人はこの矛盾する二つの行為を抱え込むのである。
第3章「嫉妬と所有」で、筆者は「嫉妬のとらえがたさ」に切り込んでいる。過去の嫉妬の研究例を見てみると、嫉妬とは、怒り、不安、憂鬱、敵意など様々な感情が混ざり合った複合感情であり、それを一つの項目で量るのは無理がある(深田・坪田)、嫉妬とねたましさという感情が必ずしも同じものではないと示している(坪田)など、嫉妬に関するはっきりした定義はない。これらを踏まえた上で、筆者は「恋敵を妬み、憎み、けちらそうとする情念だけでは、嫉妬の根本がとり逃がされるように思われる。愛する意識に伴うそれは、かなり複雑な構造を持っている」と述べている。
ここで満足するのではなく、「嫉妬は自分と同じ列に並ぶ者への敵対と憎悪にあるのではなく、自分に対する愛する人への意識と態度に焦点を合わせるものだ。たとえ横に並んだ恋敵を全て追い払えたとしても、愛する人の意識が強く私に引き寄せられないなら意味がない」という考えから、「嫉妬は、他者の意識と態度を自分が望むように捕らえておこうとする所有の追及を基本とする」という答えを導いた点を、私は評価する。
この作品を読んで、「愛するのが好き?それとも愛されるのが好き?」という質問は矛盾することを知った。なぜなら、愛するという能動的な愛の試みは、同時に「相手に愛されたい」という受動的な愛の試みであるからだ。そこに踏み込んだ筆者は、それだけで賞賛に値すると私は思う。また、「好みのタイプ」という恋愛話には欠かせない要素についても「果たして本当にそれを基準としているのか?なぜこのような危なっかしい愛の理由づけを人はするのだろう?」と疑問を呈している。言われてみればそうかもしれない。「目が大きい人が好き」というならば、日本人の半分近くがタイプと言うことになる。やはり人を愛するということは特殊なことなのだ。
一つこの本に問題があるとするならば、それは文学的な学術書ゆえの分かりにくさであろう。おそらく一度目を通しただけでは、全てを理解することは不可能である。しかしながら「愛の能動と受動」「対象愛と自己愛」「所有的な愛と自我」など、様々な視点から愛について考察しており、「愛の本質とは何か?」を考えさせてくれる作品であることは間違いない。恋愛研究をしようと考えている者ならば、一度は読むことをおすすめする。
2006/10/21
[ 評者: 梶原 達也 ]
|