池谷寿夫・小池直人 著
『時代批判としての若者』
同時代社、1994年
富裕化社会の副産物
現代日本社会において、大人と比べて経験の浅い若者は「弱者」である。本書では、あえてそのような「弱者」という視点から若者をとらえ、社会に批判的に向き合っている。
まず第一章では、現代社会でおかれている若者の状況が、総論的に述べられて 記述されている。
企業社会では、肩書きが人間全体を見る基本的な尺度になりがちである。そのため、まだ肩書きを持っていない たない*1 若者は半人前であるとみなされている。半人前観とは、過半数がホワイトカラーである現代日本の「企業社会」を支える若年労働力の位置づけであり、それを正当化するイデオロギーである、と筆者は主張している。
第二章では子どもと大人の関係から、今日の若者が置かれている状況を見ている 分析している*2。若者は、子どもと大人のどちらにも属さない存在であるが、両者の関係によって絶えず規定される流動的な存在である、と筆者は述べている。そして今、両者の関係は変容している。マス・メディアの発達によって子どもは大人の知識と情報を簡単に手に入れることができるようになり、「大人が教え、子どもは教えられる」という図式は成り立たない なくなった、と筆者は主張している。
第三章、第四章、第五章では、若者たちにとって大きな比重を占める生活領域を批判的に見て 検討している。
まず第三章で、筆者は、新しいメディア機器の登場により、物事の経験の仕方にある種の変容が起きていると考えている。今日のマス・メディアは、一方的に情報を与えるだけでなく、私たちを参加させる。しかし、メディアは私たちの感性を惰性化・類型化することで、現実の経験を貧しくさせがちであるという。
第四章では、国際化と若者について述べられて 論じられている。今日、国際化の先頭に若者が押し出されているが、そもそも国際化とは何なのだろうか。自国の考えや常識、文化のものさしに適合しないことを理解の外に追いやってしまうのは、国際理解ではない。現在の国際化は、「思い込み」を押し付けている。また、商品や資本、そして文化を他国へ進出させている。これでは本当の国際化ではない、と筆者は主張している。
第五章では、現在の日本社会での働き方を反省して、新しい働き方を考えて 構想している。まず、長い労働時間。1990年の年間総実労働時間は、ドイツと比較すると526時間も長い、2124時間である。さらに、サービス残業をすることが多い。筆者はこのような働き方を否定し、企業社会のなかでの自己実現のなかで、 、つまり、いわゆる「働きがいを唯一の生きがいと思い込まずに、新たな自己実現の在り方を発見していくべきだと述べている。
最後の第六章・第七章では、若者の自立と社会的な協同のための指針をそれぞれ異なった視点から論じている。
まず第六章では、自分探しをするために自己開発セミナーを利用する人がいるが、果たしてそれで自分探しができるだろうか、と筆者は疑問を持っている 投げかける。自分自身が本当に望む〈〈自分〉〉を自己発見することができるかどうかが自分探しである、と筆者は考えているからである。
第七章では、「交際」について述べられて 分析されている。効率優先の企業社会では、肩書きをはずした「交際」が難しくなった。そこで、筆者は、「社会」を「交際」という意味から考え直すことを提案している。社会は、弱さも強さも認めながら人間を尊重しあう自由な協同であり、ライフコースを開拓する場でもある。そのため、肩書きをはずしたいい「交際」の世界を作り上げることが大切である、と筆者は述べている。
本書は、章によって筆者が違い、それぞれが独立したトピックになっている。[←*3]
第一章の筆者は、日本は企業社会なので、若者が半人前扱いされると言っているが、企業社会ではない国では、そのような扱いを受けていないのか。基準は違うにしても、どこの国でも一人前になるまでは、半人前として扱われているのではないだろうか。その点についてもう少し触れてほしい。
第三章からは、主に今日の日本社会の在り方を批判しており、直接若者を出している 論じているわけではない。[←*4]
全体を通して、あまり深い話をしていないので、内容が薄くなっている[←???*5]。本書を読むだけではあまり知識が得られないが、各章の筆者が個人で書いている本を併せて読むと、参考になるのではないだろうか。
2005/05/23
[ 評者: K.N. ]
*1:「肩書きを持っていない若者」と「持たない若者」は同じ意味に思えるかもしれませんが、微妙にニュアンスが違います。「持っていない若者」の場合は、若者に肩書きを持っている者と持っていない者がいて、そのうちの後者(若者の一部)を指すというニュアンスがあります。一方、「持たない若者」の場合は、若者とは総じて肩書きを持たない者であり、そうした若者“全体”を指すというニュアンスがあります。英語のaとtheの違いのようなものですね。
*2:「見ている」という表現も「述べている」「言っている」などと同じく曖昧なところがある。文章を引き締めるために、「分析している」など、もう少し具体的な表現に変える。
*3:これは、もっと書評の冒頭部のほうで述べるべき情報。7章まで紹介し終えた後に書いていては遅すぎる。それに「章によって筆者が違い」と言っても、2人の筆者が各章を分担しているのであって、7章を7人で書いているわけではありませんよね?ならば、「2人の筆者が各章を分担し」などとしたほうが適当。
*4:だから?議論が本筋から離れているのでよくない?このあたりが不明確。それに、この本の場合は、若者を題材にとって「時代批判」をおこなうことに主眼があるようにも思えるので、だとすれば、「直接若者を論じているわけではない」としても、大きな問題ではないのでは。
*5:「深い話」とはどういう話のことで、「薄い内容」とはどういう内容のことでしょうか?それを具体的・説得的に展開しないと、主観的な独断にすぎません。また「深い話」というのは基本的に俗語の話し言葉なので、適切な表現ではない。
[ comment ] 要約部はまあまあまとまっているのですけれども、文体が単調なのが気になる。「筆者が」「筆者は」、「述べている」「述べている」というふうに、くり返しが多くて、くどい。もう少し、このあたりの文体をくふうして、言葉を刈りこみ、整えてください。 それから、最後のほうの批判部分・評価部分が、ことば足らずで、それこそ「薄い内容」になってしまっている。ここに、ふくらみや厚みをもたせるように意識的に心がけてください。
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