[ home ] [ back ]
 
     書 評 課 題 (第1回)  
  辻大介ゼミ6期    
 

町沢静雄 著
『成熟できない若者たち』
講談社、1997年

 1989年に「若者」によって引き起こされた「連続幼女殺人事件」と「女子高生コンクリート詰め殺人事件」という二つの大きな事件。本書は、精神科医である本書の筆者、この二つの事件からも読みとれるように現代の若者(青年)は全体的に「心の未成熟」が顕著にみられると考え あるとして、その原因を精神医学の観点から考え、現代の若者を考察している。

 まず筆者は第一章において「心の成熟」に関して以下のような「心の成熟」の条件をあげている。
1 感情、意思のコントロール
2 独立心の獲得
3 人生の目標や計画を主体的に形成する
4 他人への理解や配慮をする能力
この四つの条件を全て満たすことができるほど理想的に成熟することは難しいが、一つ未成熟な部分があっても別の部分の成熟で補うことができれば人は「成熟」できる、と筆者は述べている。すなわち裏を返していえば、現代の若者はこの四つの条件が大きく欠如している事が多いということである。では、なぜ現代の若者はなぜこの「成熟」の条件を満たすことができなくなったのか。

 筆者は第一章から第五章において現代の青年が「成熟」できなくなった原因を「ボーダーライン」や「うつ病」というような精神病理に陥った青年患者を例として示し、それぞれの患者が精神病理に陥ることとなった原因を追究し、そこから真の原因として、現代社会の家庭環境の変化、消費社会化、青年たちの大人になることへの逃避、など様々な根拠を挙げ、その根拠をもとに現代の若者の全体像へ迫ろうと試みている。*1 その中でも筆者が現代青年の「未成熟」の理由として何度も繰り返し述べているのが家庭環境の変化である。そして家庭環境の変化が中心となり にともなって、若者が大人になることへの逃避を行う を逃避するなどの他の原因も現れるとしている。すなわち家庭環境の変化こそが現代の若者の「未成熟」の根幹をなすべき問題であるのである。*2

 筆者のいう家庭環境の変化とは、次のようなものだ。戦前の家父長制では「父親」という精神的支柱に権威が集中していたのに対して 。しかし、戦後の新しい資本主義の考え方の中では、家庭であっても権威のよりどころが財産やお金といったものに変化し、 なる。家父長制の弱まりとともに、父親の存在や権力といったもの低くなったということ 低下したである。そして、父親という権力の低下 それによって母親と子供の関係、母子の共生関係が強くなった。筆者によると家庭内暴力や登校拒否をおこす子供の家庭の多くが、母親が非常に過保護であるか、逆に母親が非常に権威的で過干渉であり、母子の共生関係が極端に濃密であると述べている。*3 また、近代の大人中心の社会から、現代は子供の教育や子供の食事などを家庭の中心とする子供中心の社会となり、家庭は子供にとって自分中心に周る居心地の良い「ゆりかご」となり、それを手放すことを恐れるため若者は「大人」になること、すなわち「成熟」することへの逃避を無意識のうちにおこなってしまうのである。また、学歴偏重教育の考えから、母親たちは、勉強のできる、親に反抗しない子を「良い子」だと決めつけ、塾に通わせて勉強のでき「良い子」になれ、という無言の期待過剰のプレッシャーを過剰に子供にかけてしまっている。そして本来対人関係の適応を学ぶべき幼年、思春期にそのように塾に通い、外で遊ばないことが原因で対人関係に障害をきたしてしまう、と筆者は述べている。

 そして、そのような家庭環境の変化により「成熟」できない典型的な「未成熟」若者の例が「ボーダーライン」という筆者の専門でもある精神病理の患者によって特徴的に示されている。「ボーダーライン」とは「分裂病」に限りなく近い神経症の一種であり、主に、対人関係や情緒の不安定、衝動的、自殺をおこす危険、自己同一性の障害、空虚感、倦怠感を常に感じる、人に見捨てられるのではないかという不安を強く持っている*4、という診断基準によって判断される。この「ボーダーライン」には、暴力などを伴い、非行に走るような外に向かうタイプと、全てが虚無的になり、閉じこもってしまう内向的になるタイプの二つに分けられる。筆者が本書で示す「連続幼女殺人事件」と「女子高生コンクリート詰め殺人事件」という二つの事件は、「連続幼女殺人事件」の犯人の宮崎勤青年の場合は、親の過保護があり、一方女子高生を誘拐し監禁するなどの行為を行った「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と呼ばれる事件の犯人の少年たちであれば には家庭崩壊という家庭環境の悪化がみられ た。「連続幼女殺人事件」の宮崎勤青年 前者は内に向かうタイプの「ボーダーライン」「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の少年たち 後者は外に向かうタイプの「ボーダーライン」の側面があったのではないかと筆者は論じている。

 「現代の若者」ということを述べる を論じるのに「IT」や「マンガ」といったことによる などの悪影響を挙げる本が多い中、若者の育つ環境の根幹といえる「家庭」というものを通して「現代の若者」を論じている点は非常に興味深い。筆者の取り上げている「連続幼女殺人事件」と「女子高生コンクリート詰め殺人事件」は今となってはなじみが薄いが、宮崎勤青年の起こした「連続幼女殺人事件」は、彼の自宅に何千本ものロリコン趣味のビデオが出てきた事から、ビデオや漫画などの悪影響がささやかれた事件であった。しかし筆者は「ビデオ」や「マンガ」といったメディアによって人間関係が希薄化した可能性などは指摘しているが、「マンガ」や「ビデオ」が事件の直接的な原因であると短絡的に考えることを否定し、ある種ガス抜きの役割を果たすカタルシス的な効果としての「ビデオ」「マンガ」の可能性を示唆しており、主観的ではない冷静な指摘であると感じる。 も冷静に指摘している。

 しかし、本書において疑問に思う点もある。現代の青年全体が「未成熟」な傾向にある、と述べるにおいて精神病理を患った一部の青年のみを指標にすることで現代の青年の全体を「未成熟」な傾向にあると考えることができるのであろうか、ということである精神病理は様々な偏見の目が向けられ、「精神病」=「変な人」などと考えられることが多いがその名のとおり「病気」である。*5 にもかかわらず 文字どおり「病気」である精神病理の患者から、「病気」ではないはずの現代の若者全体への論理の飛躍はかなり無理やりすぎると感じる 推論を飛躍させることは、かなり強引なものに思える。ここで筆者が行っている「精神病理」から若者全体の「未成熟」への展開は例えば、
『「胃潰瘍」という病気がストレスから患う病気である事を用いて、現代社会において「胃潰瘍」が増加したことを「胃潰瘍」の増加のデータすら示さずに「胃潰瘍」の増加を述べ、そのことから「社会全体が強度のストレスを感じている」と決め付ける』
やりかたと同じではないかと思う。本書において欠けているのは、まず「精神病理」増加を自明のこととせずに、現代青年の精神病理の増加をデータで示すことである。そこから筆者の精神科医としての経験からだけでなく、現代の若者が「未成熟」であると筆者が主張している根拠を裏付けることができるデータを挙げ、若者の「未成熟」について論じるべきだと思う。そうでなければ主観的な根拠のない論理 なければ、主観に偏った議論となってしまう。少し古い本ではあるが、精神医学という身近ではない観点からとらえられていて、理屈 抽象論ばかりではなく筆者の担当した精神病理の青たちの例がおおく示されているので読みやすいとは感じたが、若者を考えるのに必読であるか、と考えると(?) は疑問である。*6

2005/05/26
[ 評者: I.Y. ]

*1:この1文は長すぎ。適当なところで2〜3文に区切る。
*2:この1文は、ほとんどすでに述べたことの繰り返しなので不要。
*3:ここで改行をいれたほうがよい。
*4:診断基準が長すぎ。主だったものをいくつか挙げるくらいに。
*5:この1文は、特に議論の流れを把握する助けになっていない。不要。
*6:“「?」である”のような記号表記でなく、ちゃんと言葉で書いてください。

[ comment ]
文章を書くときのクセなのでしょうが、「〜ということ」「〜といったもの」が多用されていて、くどい印象を与えます。また、過度に曖昧で、自信なさげな印象にもなってしまうので、気をつけて。
また、1文がかなり長い場合がけっこうある。長い文が必ず悪い、というわけでもありませんが、基本的には、短く区切られた文のほうが読者にとっては読みやすい。これも気をつけてください。

 
22 < index > 02