香山リカ 著
『テレビゲームと癒し』
岩波書店、1996年
本書の著者は、「テレビゲームが子供の心に悪影響を与える」というステレオタイプ的な論調に対して、精神科医である著者が自身の臨床体験を元に「テレビゲームは心に悩みを持つ人に対して治療として有効である」という仮説を立て、反論している。
第一章では、著者自身のゲームとの出会いと、自身の職業である精神科医の仕事とゲームをドッキングさせるきっかけとなった、ある少年との出会いを紹介している。
診察場面では寡黙で、コミュニケーションが困難な少年。だが一本のテレビゲーム「ドラゴンクエスト」を通じてなら、少年のほうから交流を求めてくる。この体験から著者はゲームが人の心を癒すことができるのではないか、と意識し始める。
その当時(1987年)、世間ではある少年による肉親殺人事件が起き、その少年の凶行 それがテレビゲームと結び付けられる ていた。このとき初めてゲームは文化評論の枠に組み込まれ、評論家たちは競ってテレビゲームを悪者扱いした するようになったのである。それはゲームという世界を「現実」に対する書評 批評(?)だととらえて論じようとする画期的なものであった。
二章ではここから始まるテレビゲーム悪影響論を「ゲーム批判の系譜」と題し、様々な否定派の論を紹介している。
同時に、ゲーム愛好学者たちによる「ゲーム擁護論」もいくつか紹介している。
だがそれらは、ゲームをまったくしていないであろう人が悪影響論を説き、ゲーム好きである人が擁護論を説くという、非常に偏った論争になっている。筆者もその点を指摘し、「中立的立場を取れる人による基礎的な研究が必要」としている であるとする。
その条件をクリアしたのが坂元章氏の『テレビゲームの悪影響論』という論文である。これは独自の研究結果をもとに書かれたもので、それによる結論とは次のようなものであった。
「小学校男子だけで、微弱ではあるが、テレビゲームに長く接触する子供ほど社会認知的能力が低いという相関を示し、テレビゲームの悪影響を否定しないものであった。」(P p.78)
冒頭部分にかなりの条件が付けられているが、一応この研究結果を鵜呑みにすると にしたがうならば、「やっぱりゲームは子供に悪い!」という論に軍配が上がったかのように見える。だが、そこにも重大な落とし穴が潜んでいることに筆者は気づくのであった。それが、第三章で述べられている 指摘される。
坂元氏は、上記の結果が導き出されたとしても「テレビゲームとの接触によって社会認知的能力が低い くなる」という因果関係は導けないという。なぜなら「もともと社会認知的能力が低い子供がテレビゲームに接触するようになる」という逆も考えられるからである。
そして坂元氏は独自の調査から、つまりもともと人付き合いの苦手な子供がゲームに熱中する、というのが坂元氏の説である ほうが正しそうであることを明らかにしている。
著者は、何度もテレビゲームを介して子どもたちと“出会って”きた――閉ざされた心に接近できた――臨床経験から、さらに踏みこんで、論を展開させ、「何か問題を抱えている子供でも、テレビゲームになら熱中することができる。」という逆の考えを唱える のではないか、と議論を展開していく。
ゲームでなら閉ざされた心にでもたやすく接近でき、著者は何度もテレビゲームを介して子供たちと"出会って"きた。
第三章はこのような見地から、精神科医は、他の専門家とは違った見方でゲームを語っていると考え、どのような発言をしているのかを追う。
それによると「現実と虚構の境界の喪失」論は80年代後半に急に登場したものではなく、「ハム交信に熱中する青年」という具合に、形こそ違えど数年前から一部の精神科医たちによって述べられていたことであり、テレビゲーム批判はちっとも 決して*1画期的な論ではないとしている。
25年間、「現実と虚構の混乱」といった結論しか呈示できていない現状を悲観している のが現状なのだ。
つづいて筆者は、テレビゲーム、パソコンを「やさしい虚像」と位置づけ、それはつまり「逃避」であり、「テレビゲームでは自我は育たない、現実の中で鍛錬が必要だ」といった論文に対して疑問を呈し、その仮定がどうやって証明されるのか?「逆にゲームの中で自立できる」という仮説でもよいのでは?と疑問を呈し も成り立ちうるのではないかと考え、次の四章で自分 自らの臨床体験をもとに、後者の正当性を証明しようと試みている。
四章では心因性の疾患の子供たちがゲームを通じてなら心を開く、あるいはゲームによって実生活にプラスの効果を生んだような例をいくつか挙げている。
たとえば、「現実の世界には自分を迫害しようと思っている人でいっぱいだ」という妄想に苦しんでいる患者が熱中しているゲームはどこから何が出てくるかわからない「ダンジョンもの」。なぜ現実でもっとも苦手とする状況が展開されるゲームがすきなのか?という疑問 それに対し、「ゲームと現実は完全に区別されており、完全な虚構でもなく苦しい現実でもない自分を傷つけずに守ってくれる第二の現実」と著者は位置づけている 考える。
このように臨床体験に著者自身の見解を沿えて数例列挙している。
ただしそれらはあくまで著者の経験に基づく推論であり、科学的根拠があげられているわけではない。
五章ではまとめとして、著者が「これだけは言ってよいだろう」という説を5つあげている
@テレビゲームは傷ついた心にもやさしい
ゲームによる刺激が原因で心の状況が悪化した例は見たことがない。
A症状を気にせずプレイできる
現実の問題を持つ自分とゲームの中の自分はまったく関係がないと区別できる。
B現実とは別の論理や法則がある
現実の問題解決能力は低くても、ゲーム中でのそれは卓越している場合がある。
Cそこでは抽象的な概念も違う
ゲームを介しての人間関係は従来のものとは別物。
D突然治癒する場合がある
ゲームばかりしていたのに突然明日から学校へ行こう思い立った。
これらを踏まえて筆者は「ゲームは子供の心に何らかの影響を与えている。ゲームは心の成長を促進することができると考えたほうが自然」と考える。
ゲームをすることで子供はその世界に受け入れられ、安堵感を持つことができる。その世界は現実の虚構なのではなく、法則も論理もまったく違う「新しい世界」。その世界に没頭することによって得られる「強い参加の感覚」。
「受容と参加」。この二つの感覚を、現実の生活では体験できない強さ実感する。ゲームが持つ心の癒し機能とは、プレイヤーがこの二つの強い感覚を直接与えられることであると筆者は結論付けている。
「ゲームをすると心に問題がある 生じる」という悪影響論の「問題」の部分が心の病の域まで達しているので、いわゆる「普通の子」に対する悪影響を論じるなら少々 とは多かれ少なかれ論点が違う。子供の心という素因が先にきているという説なのだから、学者の、「ゲームが先」の悪影響論とでは、いつまで経っても話が噛み合わないであろう。しかし精神科医の方の臨床体験が元なので、学者が小難しい言葉を並べて論じるよりは説得力がある。机上の空論よりも臨床体験のほうが読んでいるものとしては受け入れやすい。
「ゲームはおそらく悪いものではない」というのが結論だが、本書全体において、ほとんどが著者の推論の域を出ていないのだ。だから「おそらく」や「たぶん」といった言葉がついてまわる。それは著者自身も重々自覚しており、「理論的に説明しようとするとたちまち行き詰まり、法則化、数量化、言語化さえも難しい」と本文でも述べている。つまり当時の著者もテレビゲームと心の関係については手探り状態で、ほとんどなにもわかっていない。科学的根拠もデータも何も出てこない。
ゆえに我々がこの本を真剣に読んでもゲームと心の関係は何もわからない。臨床記録、エッセイみたいなものである。
学術書として読むことはできない。あくまで一人の精神科医の意見、感想のようなものだ。
だが、まったく読む必要がないかといえばそうでも に値しないというわけではなく、二章では既存のゲーム悪影響論の矛盾点や、論理の曖昧さをビシッと斬っている。
テレビゲームの善悪は判断できないが、悪と言うにはあまりに状況証拠が足りないのでは?*2 ないか、と思わせる一冊である。
2005/05/02
[ 評者: N.S. ]
*1:「ちっとも」は口語。基本的に口語(話し言葉)は用いないようにする
*2:文の途中で「?」は使わない
[ comment ]
これで原稿用紙8枚弱くらい(3000字強)です。ちょっと長すぎ。書評というのは、実は短く書くほうが難しい。なぜなら、ポイントをきちっとつかまえないと、短く書けないから。この内容(=要約がメイン)&この本なら、4枚以内におさめてほしい。
みんなも最初のうちは4枚くらいを目途にしてください
とはいえ、書評というもののポイントはきちっと押さえられています。
書評とは基本的に次の3つの要素から成り立ちます。
(1) 本の内容の要約
(2) 評価すべき点
(3) 批判すべき点、問題点
そして、それ以上に重要な基本は「読書感想文」では決してないこと。今回の原稿はとりあえずこれらをクリアできているので、合格としときます。
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