アイロニーのコミュニケーション論


§5.言語行為の構造──アイロニーという言語行為の解明に向けて

 以上でみてきたように、Sperber and Wilsonの『言及説』、Clark and Gerrigの『擬装説』、橋元の『仮人称発話説』、いずれもアイロニーにまつわる三つの問題──《効果》《非対称性》《明言による失効》──のすべてに対して、完全に整合的な説明を与えるには至っておらず、したがってアイロニーの《本質》を十分にとらえきれていない。
 しかしながら、これらの説は全面的に誤っているわけではない。それら三説が根本的な部分で共有している見解は適正なものであり、ただその見解を適正に展開することに失敗したのだというのが、言及説・擬装説・仮人称発話説に対する本稿の最終的な評価である。この節では、次節においてその見解の適正な展開を試みるための準備作業を行う。
 三説に共通する根本的な見解とは何か。まずはこの点を明らかにしておこう。
 それは、アイロニーというコミュニケーションを、重層性の相においてとらえる視座である。言及説は(§3でも述べておいたように)アイロニーを、@基層レベルでは文字通りの意味を伝えつつ、Aメタレベルでそれに対する否認的態度を伝える、という重層的なコミュニケーションとみなす。また、擬装説と仮人称発話説は、@文字通りの意味の発話を行う仮想的発話者S'・仮人称Xを基層レベル上に仮設し、Aメタレベル上に位置する実際の発話主体S・Aはそれを擬装しているに・発話視点を仮託しているにすぎないことを呈示する、という重層的なコミュニケーションとしてアイロニーをとらえる。
 アイロニーがこうした重層性の相にその《本質》をもつものであるならば、それを単に発話の文字通りの意味の否定・反対を伝えるものとみなす──つまり基層的レベルのみにおいてとらえる──旧来の見解が、《効果》《非対称性》《明言による失効》という問題のいずれにも答えられないのは、当然のことと言えよう。
 さて、このようなコミュニケーションの重層性を考察する上で重要な示唆をもたらすのが、橋元[1995]が提唱した「汎人称発話」──仮人称発話はそのバリエーションの一つとされる──という考え方である。

 橋元の「汎人称発話」論は、J.L.Austin[1962=1978]に端を発する言語行為論(Speech Act Theory)の理論的拡張を企図したものである。そこでまずはAustinとその後継者J.R.Searleによる言語行為論の基本構図を簡単におさえておくことにしよう。
 Austinは、言語を専ら命題(proposition)という形で分析してきた従来の哲学に対し、言語を行為(act)という形で分析する新たな視角を拓いた。われわれの日常生活において用いられることばは、「その本は赤い」などのように事実との対応関係(真偽)の問いうる命題の相においてとらえきれるものばかりではない。例えば「その本を取ってください」という発言に対し、その真偽を云々することはおよそナンセンスだろう。そのことばは“依頼”という行為をなすものにほかならず、行為について真か偽かという問いをあてはめるのはカテゴリーの錯誤(category-mistake)であるからだ。
 続いてAustinは、言語行為に次のような三種類の行為側面を区別する。まず、かくかくしかじかのことばを述べる(saying)という行為であり、これを発語行為(locutionary act)という。次に、そう述べることにおいて(in saying)なされる行為──上の例でいえば“依頼”──であり、これを発語内行為(illocutionary act)という。そして、そう述べることによって(by saying)、結果的に“相手に本を取らせる”“相手を面倒がらせる”などの行為をなすことになる。これを発語媒介行為(perlocutionary act)という。
 発語内行為については、それがどのような行為であるかを「私は〜と依頼します(I request that...)」などのような、慣習的(conventional)な定型発話形式によって指定しうるという特徴がある。一方、発語媒介行為の場合には、例えば「私はあなたに本を取らせます」と言ったところで、相手が実際に本を取ってくれなければ“本を取らせる”という行為になりえないことからもわかるように、そうした指定を行うことができない。
 しかしながら、こうした定型発話形式によって行為の指定を行ったとしても、その発話が直ちに当該の発語内行為として発効するわけではない。死刑を“宣告”するという発語内行為を例に考えてみよう。しかるべき資格を備えていない者(例えば裁判官ではなく傍聴者)が「被告に死刑を宣告します」と述べたところでそれは死刑の宣告にはなるまい。また、劇中の裁判官役が被告役にそう述べたとしても、実際に死刑の宣告が行われたことにはなるまい。これらは、死刑の“宣告”という発語内行為が遂行されたとするには「不適切(infelicitous)」であろう。発語内行為の適切な遂行には「満たされるべき必要条件」が存するのである(Austin[ibid.:26f])。
 Austinを継いで、この「発語内行為…が首尾よく、かつ、欠陥をもつことなく遂行されるための…必要十分条件」の定式化を試みたのが、Searle[1969=1986:97-128]である。Searleはそれを『命題内容条件』『事前条件』『誠実性条件』『本質条件』の四種に大別している。
 Searleによれば、発語内行為の一般形式は、それがどのような種類の発語内行為か──“依頼”なのか“命令”なのか──を特定する《発語内の力(force)の表示部分F》と、どのような内容をもつ発語内行為か──依頼内容は“聞き手が本を渡す”ことか“聞き手が募金する”ことか──を特定する《命題内容の表示部分p》から成る、

F(p)

というものとされる(ibid.:54)。
 命題内容条件とは、当該の発語内行為を遂行する上でpに加えられる制約のことであり、例えば“依頼”という発語内行為の場合には、p は聞き手の将来の行為を述定するものであることが必要とされる。事前条件とは、その名の通り、当該の発語内行為が遂行される事前前提となるような制約のことで、“依頼”であれば、話し手が聞き手にはp を行う能力があると信じていること、頼まれなければ聞き手はp をするかどうかわからないことなどが挙げられる。誠実性条件とは、当該の発語内行為を遂行しようとする話し手の心理・態度に加えられる制約であり、まじめに(seriously)“依頼”を行おうとしているかどうか、言い換えれば、聞き手がp をすることを話し手は本心から(sincerely)望んでいるかどうかである。本質条件とは、当該の発語内行為の本質がもたらす制約のことであり、“依頼”の場合で言えば、その発話が聞き手にp をさせようとする試みとみなされることである。

 さて、Searleはこれらの条件について綿密な考察を加えるなかで、誠実性条件との絡みでいわゆるMooreの逆説にふれている。それは例えば、

(1) 今、雨が降っている。でも、私はそのことを信じない。

などのように、「p という命題と『私はp を信じない』という命題が不整合でないにもかかわらず、私は、p を主張しながらかつp を信じないということができない」(ibid.:128)という逆説のことであり、Searleによればこの逆説が出来するのは「誠実性条件において特定される心理状態が存在するときにはつねに、その行為の遂行がその心理状態の表現と見なされる」(ibid.:116)からだという。つまり、「今、雨が降っている」と“主張”する発語内行為の誠実性条件において特定される心理状態(話し手はp を信じている)と、それに続く信念文「私はそのことを信じない」が矛盾するためである、と*9
 これに対し、橋元[1995:109]は、「表面上(1)と同型でありながら、明瞭に逆説性を構成しているとはいいがたい」例として次の(2)(3)のような事例をあげる。

(2) 地球は丸い。でも、私はそのことを信じない。
(3) 麻原彰晃が地下鉄サリン事件を指示した。でも、私はそのことを信じない。

(2)は「科学的真理」に関する発話、(3)は「報道的真実」に関する発話である。このような発話は、(1)とは誠実性条件を異にする別タイプの“陳述”なのだろうか。
 橋元はむしろ(2)(3)のような言語行為が、(1)とは「基底の構造を異にする」可能性を追究する。

構造としてあらゆる言語行為にF(p) の基本形を置き、効力部 F の行為主体として話し手 I 、行為対象として聞き手 you を措定することは…言語行為論の前提として維持されている。たとえば、(2)の場合をとっても、その基底には、I TELL you that p …という構造を考えるのである。しかし、単純にそう考えた場合、(1)のような例との差異が表現できない…。こうしたことを説明するためには、言語行為主体の二重性という事態を考えなければならない。
(橋元[1995:111])

橋元は、(1)(2)(3)の第一文をとりだして、改めて観察を加える(ibid.:111f)。

(1') 今、雨が降っている。
(2') 地球は丸い。
(3') 麻原彰晃が地下鉄サリン事件を指示した。

(1')の場合、話し手の体験した外的世界を言語化している。……一方、(2')は話し手の体験した外的世界や心的世界の記述ではない。話し手が言語化しているのは、話し手には体験し得ない世界であり、既に存在している他の言説的世界を再言語化したに過ぎない。このことは、報道的言説を再言語化した(3')も同様である。……これらのことから言えるのは、(1')の場合においては、言語行為の基底構造を I TELL you that p と考えてよいが、(2')(3')の場合、発話主体として、もう一つ別の一般人称X、つまり既に流布している言説の発話主体を挿入しなければならないということであろう。つまり、(2')(3')のような発話は、I TELL you X TELL that p という構造をもつ(斜体のTELL は限りなく「言及」的使用に近い陳述を示す)。このような構造をとる発話をここでは「汎人称発話」と呼ぶことにしよう。〔※一部修正を加えた〕

このような汎人称発話構造は、何も“陳述”に限って観察されるものではない。例えば、次のような“命令”(あるいは“禁止”)をみてみよう。

(4) 芝生に入らないで下さい。ほんとは禁止したくないんですが。

この場合、その「実態は、I TELL you X ORDER you to keep off the grass と考えられる」(ibid.:114)。こうした一般的規範を述べたものとみなしうる発話を橋元は「公的規範発話」と呼び、結論として次のように締めくくっている(ibid.:116)。

既に存在している他の言説世界を再言語化する叙実的発話の場合は I TELL you X TELL that p 、また遂行的な公的規範発話の場合は I TELL you X PERFORM that p (PERFORMは遂行的発話の抽象動詞を示す)という汎人称構造をとると考えられる。演劇やドラマのせりふの場合、その性質上、すべての発話は I TELL you X TELL (or PERFORM) that p (当然、せりふによっては、I TELL you I TELL you X TELL (PERFORM)......というようにさらに審級性が高次になる)という構造をとり、構造的には同型である。このように考えれば、われわれの多くの日常会話は「せりふ」なのであり、汎人称発話構造をとらない一部の発話の方こそ、むしろ特殊例とみなされるべきなのである。

 本稿は、こうした橋元の汎人称発話論の基本的見解を妥当なものとして継ぎつつ、次節においてアイロニーの《本質》を解明するための補助線となる論点を二つばかり追加しておくことにしたい。なお、橋元はアイロニーを汎人称発話の一特種(仮人称発話)とみなしている(ibid.:112)が、本稿がその点に関する見解を継がないことは言うまでもない。それは、アイロニーを汎人称発話の一特種とみなすことが誤りであるためではなく、むしろその特種性の内実の把握に、前節で述べたような難があるためである。
 補助線となる論点の第一は、橋元が上に述べるように「汎人称発話構造をとらない一部の発話こそ、むしろ特殊例とみなされるべき」かどうかということである。そうした事例の方がやはり一般例とみなされるべきだというのではない。そうした事例にも汎人称発話構造を認めうるのではないかということである。例えば(1)に、

I TELL you that X TELL that it is raining now

という汎人称発話構造をあてはめたとしても、(1)と(2)(3)の違いを、発話の際にI=Xが前提されているか/I≠Xが前提されているかの違いと考えるならば、特に無理は生じまい。本稿ではこのように、汎人称発話構造を言語行為の一般的な構造とみなすことにしたい。
 また、ここから示唆されるように、事前条件の一部と誠実性条件は、この発話主体Iと発話人称Xの結びつきに関する制約とみなしうる。これが第二の補助線となる論点である。例えば、役者が劇中で「今、雨が降っている」と述べたとしても、その役者は“今、雨が降っている”と信じているわけではない──誠実性条件が満たされていない──がゆえに、それは『不適切』な言語行為(Austin[1962=1978:28]のいう『濫用(abuse)』)となるわけだが、このことは見方をかえれば“誠実性条件において特定される心理状態が発話人称X(役者の演じる劇中人物)に帰せられるばかりで発話主体Iには帰せられない”という発話人称Xと発話主体Iの不一致・乖離を示している。したがって、誠実性条件とは(それにおいて特定される心理状態の帰せられる)発話人称Xと発話主体Iが一致しているかどうか<whether X is I or not>を質す条件であるとみなしうるだろう*10。また例えば、裁判の傍聴者が「被告に死刑を宣告します」と述べるような場合に、それが『不適切』な言語行為となるのは、傍聴者には死刑を“宣告”する資格がない──事前条件(の一部)が満たされていない──ため、言い換えるなら、発話主体Iが死刑の“宣告”を遂行する資格を備えた発話人称Xではないためである。したがって、事前条件には、(当の発語内行為を遂行する資格を備えた)発話人称Xが発話主体Iに一致しているかどうか<whether I am X or not>を質す条件が含まれているとみなしうるだろう。
 このように視座をとりなおすと、(『適切』な言語行為の)汎人称発話構造は潜在的に次のような構造をとるものとして再定式化することができる。

I SHOW you that  {<X is I> & <I am X> & ...... & }  X PERFORM that p
適切性(条件)

ここで、SHOWは積極的に言語化される──「語られる(TELL)」──のではなく、いわば単に「示される」のみであることを表している*11。{ }内に「示される」のは、当該の言語行為を『適切』なものとする一連の条件であり、ここには誠実性条件にあたる<X is I>・事前条件の一部にあたる<I am X>など(の発話人称の設定)が含まれる。これらの人称設定に基づいて、通常XにはIが代入されることになる。また、PERFORM は TELL を含む(TELL or PERFORM を略記した)ものとし、以下ではPERFORM をこの意味で用いる。
 以上のような二つの補助線を引き終わったところで、次節では、いよいよアイロニーという言語行為に関する本稿の結論を提示することにしたい。


§6.意図された不適切言語行為としてのアイロニー

 アイロニーの《本質》は“意図された不適切言語行為(intended infelicitous speech act)”という点にある。これが本稿の結論である。
 より精確に言えば、アイロニーとは、意図的にその不適切性が示され、最終的に発話人称Xが発話主体Iと一致していないこと<I am not X>が示されるような言語行為である。その汎人称発話構造は、以下のように表すことができる。

I SHOW you that it is infelicitous that X PERFORM that p
〔it entails that X is not I as a corollary〕

ここで、斜体のinfelicitous(不適切性)には、とりあえず、<X is not I>──Searleの誠実性条件にあたるもの──は含まれないものとする(以下で「不適切(性)」あるいは「適切(性)」と述べる場合も同様)*12
 ある発話がこのような構造をもつ言語行為=アイロニーとして成立・発効する具体的な機制は、次のようなものである。
 発話者は、発話に言語付随的な反語信号を伴わせることによって、あるいは言語外的なコンテクスト・状況との不協和を生じさせることによって、その発話(言語行為)が通常どおりに円滑な形でなされたものではないことを、まず示す。例えば、私たちは通常「彼こそ超一流の作家でしょう!」と褒め讃えるようなときに「(爆笑)」したりはしない。この点でその発話は円滑を欠く。そして、土屋[1983:131]のいうように「言語が使用されたなんらかの状況において、なんらかの観点から円滑を欠くと考えられたときこれらの条件〔=適切性条件〕が顕在化され不適切性の判定が行われることになる」*13。アイロニーの《(認知的)効果》とは、こうした通常は潜在的・背景的な適切性(の条件)が、不適切性として顕在化するという、いわば『図−地(figure-ground)』の反転(図5において笑い合う顔の対面と見えていたものが杯と見えるようになるといった見えの転換にも似た)に由来するものである。直截的な表現は、こうした図−地の認知的反転を伴うものではない。アイロニーと直截的表現を認知的効果の面において隔てるのはこの点である。

図5 図−地の反転

 こうして顕在化された不適切性に、発話者の関与(意図)が感じられるときに、その言語行為はアイロニーとなる(感じられないならばそれは単なる不適切な言語行為である)。ただここで注記しておきたいのは、発話者(発話主体I)にそうした意図を明確に認めうる場合だけでなく、発話者は本来そうした意図をもたないにも関わらず、聞き手には発話者がそうした意図をもつものであるかのようにみなしえてしまうような場合も、その言語行為はアイロニーとなるということだ。それは、佐藤[1992:252f]がアイロニーの事例としてあげている次のような場合である。

<8>
事務員たちはチラとアイに視線を向け、受話器を置いた係員は、ニコニコ笑いながら、ホテルまでの道をアイに教えた。
──この道を右へ、駅と反対に向かって真っすぐ行くとつき当たりの三叉路がありますから、それを左へ曲がるんです。それから、アーケードのある通りに出たら、二つ目の四つ角を左に曲がって、少し歩くと鏡城跡の堀端へ出ます。堀端を出たところで堀にそって左の方へ曲がって少し歩くと橋がありますから、それを渡って、左に折れ最初の角(工事中の建物があるから、すぐにわかりますよ)を右に曲がって真っすぐ行くと、役所の隣に大きな建物がありますから、すぐわかりますよ。
(金井美恵子『夢の時間』)

この係員のくだくだしい説明は、悪意から発せられたものではない。しかし、そのくだくださからして、そのホテルまでの道筋は到底「すぐにわかる」ようなものではなかった。つまり、意図せずしてその“説明”は不適切だったである。また、その不適切性は係員の本意とするところではなかったにせよ、彼のなした説明のしかたに起因するものであり、言い換えるなら、発話主体Iの関与する要因によって引き起こされたものである。ここにおいて、聞き手はその不適切性を発話者によって意図されたものとして構成せざるをえなくなる(その発話者は、本来の発話主体Iとはズレのある発話主体I'となるだろうが*14)。このようにして、係員の“説明”は意図せずしてアイロニーとなってしまうのである。
 さて、発話主体I(あるいは上の例のようなズレのある発話主体I')が、こうした不適切性を意図的に『示す』・顕在化させる者であるとすれば、そこには発話人称Xとの乖離<X is not I>が帰結することになる*15。繰り返しになるが、橋元[1989]の提唱した仮人称発話説は、アイロニーにおけるこうした発話主体Iと発話人称Xの乖離を正しくとらえていた。ただ、その乖離を、評価軸に沿った下方への発話視点の移動とみなしたという点において誤っていたのである。
 最後に、残り二つの問題──アイロニーの《非対称性》と《明言による失効》──について解答を与えておこう。
 アイロニーが不適切性を示す言語行為であるならば、そこから直ちに窺い知れるように、それは、通常の「適切」な言語行為とは異なったネガティブさ(適切さ)を本来的に伴う性格のものである。アイロニーの《非対称性》はこの性格に由来している。
 反証型アイロニーの場合には、先行発話者Uが発話人称Xに比定されることにより、間接的に先行発話者の言語行為が不適切なものとして示されることになる。つまり、先の定式化にしたがって記せば、次のような構造をとることになる。

I SHOW you that it is infelicitous that XU PERFORM that p

 自生型アイロニーの場合に《非対称性》が生じるのは、不適切性を示すというネガティブな方法をとることが、一般的に、ものごとを賞賛するなどといったポジティブな目的にそぐわないからである。さわやかな快晴を讃える意図をもつ者が、「気持ちが滅入るような天気だね」と述べる発話人称Xを貶めるような方法を敢えて選択するのは、つまり、意図(目的)とは逆の方向性をもつ方法を敢えて選択するのは不自然だろう。
 アイロニーに《明言による失効》という性格があるのは、それが当該の発話(言語行為)の不適切性を『語る(TELL)』ことになってしまう──不適切性を予め『図』に繰り込んでしまう──ため、図−地の反転が生じなくなるからである。試しに、アイロニーであることが明言された(語られた)場合の、その言語行為構造を定式化してみよう。

I TELL you that it is infelicitous that X PERFORM that p
I SHOW you that it is felicitous that X1 TELL that it is infelicitous that X2 PERFORM that p

ここで『示される(SHOW)』のは、あくまで“X1 TELL that...”が適切(felicitous)であることであり、したがってSHOWのレベルにおける図−地の反転を、ひいては<X1 is not I>を結果するものではない。それゆえ、こうした言語行為はアイロニーらしい効果を生じえないのである。

 なぜアイロニーは、ときに「政治学(Politics)」──最も広義のそれ──の研究対象とされるのか*16。それは、単にアイロニーが政治的言説によく姿を現すからではない。上にみてきたように、アイロニーがある言説の発効する「政治学」的背景・『地』を(バック−グラウンド)不適切性という形で逆照射する性格の言語行為だからである。
 また、このようにとらえなおしたとき、アイロニー研究は改めて「政治学」的な拡がりをもつことになるだろう。その一つの試みとして、(ここで十分に論じるだけの余裕はないが)現代美術の祖と目されるダダイストMarcel Duchampの『泉』という作品をとりあげてみよう。それは既製品の便器に署名しただけの作品であったため、当時の美術界に大きな物議を醸した。この便器を美術作品として“表現”するという行為は、ひとまず次のように定式化しうる。

I SHOW you that it is felicitous that X EXPRESS that this ready-made toilet is an art work

この“表現”行為がfelicitous(適切)であるのは、DuChamp(=I)が、あるものを芸術作品として表現する資格を備えたX──すなわち芸術家──として既に社会的身分を確立していたからであり、芸術表現行為をなしうる事前条件<I am X>を満たしていたからである(加えて言えば、芸術作品が置かれるにふさわしい状況=美術館にその便器が置かれるという点でも『適切』な行為であった)。しかるに、この作品が物議を醸したのは、言うまでもなく、既製品の便器が芸術作品たりうるのかという点である。だが、何が芸術作品たりえて何がたりえないかという基準は極めて曖昧で多分に恣意的なものでしかない。既に権威を確立した芸術家が作品を自らの意図の表現(representation)として提出するなら、その基準は容易に変更されうる。19世紀後半にMonetが(印象派)、20世紀前半にPicassoが(キュビズム)、やはり大きな物議を醸しつつ、その基準を塗りかえてきたように。逆に言えば、Duchampの当時には、“権威ある芸術家が自らの意図の表現として然るべき場所(美術館・展覧会など)に提出すること”が芸術作品を芸術作品たらしめる要件(適切性)と化していたのである。芸術家の意図の表現であることを保証する手続き。それが作品への署名(signature)であり(Derrida[1972=1988])、便器への署名はその手続きの執行にほかならなかった。ここにおいて、既製品の便器は芸術作品として──芸術家の意図の“表現”として──適切にならざるをえない事態に追い込まれる。しかし、その便器が既製品であるということは、その作者が作品の提出者=芸術家ではないことを、そこに芸術家の意図を込めようもない──反映(リプリゼント)させようもない──ことを、如実に示すものであった。Duchampの“表現”は、いわば次のような「括弧入れ」されたI=芸術家としての人称X1の行為と、それを適切ならしめる近代芸術制度(『地』=バック−グラウンド)の不適切性を示すアイロニカルな行為だったのではないだろうか。

I SHOW you that it is infelicitous that X1="I" EXPRESS that it is felicitous that X2=X1 EXPRESS that p

このアイロニーはあまりに複雑だったためか、およそ世間の理解を集めず、また美術産業界は半ば暗黙の内にinfelicitousfelicitousに置き換えることによって近代美術制度の命脈を保った。そのため、さらに高階で不適切性を示そうとする運動、Elaine SturtevantやMike Bidloに代表されるようなネオダダ(シミュレーショニズム)が起き、現代美術を無用に難解なものとしていった。例えばSturtevantの作品には、Duchampの『泉』を完全に複製し、単に「デュシャンの泉」とタイトルをつけたものがあるが、これはDuchampの“表現”を次のように高階化しただけのものにすぎない。

I SHOW you that it is infelicitous that X1="I" EXPRESS that it is felicitous that X2=X1 EXPRESS that it is felicitous that X3=X2 EXPRESS that p

アイロニーを文字通りの意味に受け違えつつ、それを入れ子型に自らに組み込んでいく運動。それがDuchampを経由した近代美術の姿なのではないだろうか。

 アイロニーは単に修辞学の研究対象であるばかりではない。その「政治学」的研究の展開を今後に期しつつ、ひとまず本稿を閉じることにしたい。


*1. “irony”の訳語としては「皮肉」も考えられるが、この語は“sarcasm”(あてこすり、いやみ)と重なりあう部分も大きく、また、本稿では文字通りの意味(literal meaning)を伝えない発話形態の一種として“irony”を取り扱うため、語感のズレは小さくないものの、とりあえず訳語としては「反語」を採る。なお以下、本文中では音訳として「アイロニー」を用いることにする。
*2. にも関わらず、現在のレトリック研究においても、例えば瀬戸[1997:131-143]にみられるように意匠を変えて根強く残っている見解である。
*3. 近年のアイロニー論の全般的動向については、Barbe[1995]に詳しい。
*4. また別途、Kreuz and Glucksberg[1989]による展開などもみられるが、Sperber and Wilsonの論とエッセンスは共有されているので、以下ではとりたてて論じることはしない。
*5. §2で引いた定延・松本[1997]も、Bateson[1972=1990]を参照しつつ、アイロニーについてこれと同様の定義をほどこしている。「典型的なアイロニーとは、それが失礼で悪いとされていることを知っていながら、以下(1)(2)から成る複合的なメッセージを故意に発する振舞いである。(1)基層レベル上のメッセージ:私はあなたに対して協調的だ。(2)メタコミュニケーションレベル上のメッセージ:(1)は嘘で、(1)を表明する私の行為はくだらない」(ibid.:299)。§5において述べるように、このような重層性においてアイロニーをとらえる見方じたいは不適当なわけではないが、メタ−コミュニケーションのレベルで発せられるとされるメッセージ内容のとらえ方に問題がある。
*6. Sperber and Wilson自身は、こうした意味解釈上の広がり・エコーの「反響」を、特に非言語的に分節化されない形で否認的態度が示されるためにもたらされるものだとは述べていないことを注記しておく。この点は筆者がSperber and Wilsonの論を敷衍して補足したものである。
*7. Clark and Gerrigは、A'のバカらしさを演じ示すアイロニーとして次のような例を想定している。太郎と次郎がある映画を見終わった後、くだらなかったということで意見が一致したとしよう。映画館をでるとき、知り合いの花子が彼らを見つけ「君たちも見てたの、いい映画だったわね」と話しかける。太郎は「まったくすばらしい映画だったね」と答え、次郎にめくばせをする。この発話は次郎にはアイロニーととられよう。このとき、太郎は、“その映画はくだらない”という次郎との共通了解(Clark and Marshall[1981])に基づいて、花子=A'のバカらしさを次郎に対して演じ示している。Clark and Gerrigはおおよそこのように考えている。しかし、この例の花子がA'にあたるものかどうかは疑わしい。花子はその発話を素直に受け取る人物であるがゆえにバカらしいとされているのではなく、その映画をすばらしいと言う人物であるがゆえにバカらしいとされているのであるはずだからだ。したがってこの場合も、花子はむしろS'にあたると考えるのが適当だろう。Clark and Gerrig[1984]の論述にはこの種の混乱がしばしばみられる。彼らの論にとって仮想的な聞き手A'の導入は不要であるように思われる。
*8. 加えて言えば、橋元[1989]はアイロニーの《非対称性》を十分に認識していながら(ibid.:50,69f)、こうした「よい意味」で用いられる自生型アイロニーの可能性を仮人称発話説の観点から理論的に排除する作業を行っていないように思える。唯一その作業に該当するように思えるのは、橋元がSperber and Wilsonの言及説を評価する際に行った「アイロニーの非対称性については、『言及』される命題が、社会的な通念や期待であり、逆命題よりはるかに親しみがあり、必然的にそれ自体『よい意味』のものであるという解釈で容易に説明可能である」(ibid.:80)という論述である。この観点を橋元の仮人称発話説が引き継ぐものであるのならば、§3で指摘した言及説の問題点の第二と第三を併せることで、次のように反駁することができる。社会的な通念や期待には必ずしも「よい意味」のものばかりではなく、例えば“刑務所はひどい所である”などのように「わるい意味」のものも含まれている。したがって、《非対称性》を説明する理由としては不十分である、と。
*9. あわせてVanderveken[1994=1995:34f]を参照。
*10. また、北田[1997]の指摘しているとおり、Habermas[1984=1990:116]『誠実性の主張(Wahrhaftigkeitsanspruch)』──言語行為が遂行される際に掲げられるとされる四つの妥当性の主張(Geltungsanspruch)の一つ──も同様に、このような一致(X is I)についての主張とみなしえよう。さらにいえば、『正当性の主張(Richtigkeitsanspruch)』は、本文中の続く部分で述べるような一致(I am X)についての主張とみなしえよう。なお、本文中のこれらの箇所の論述は、北田[1997]の論と若干の異同はあるもののそれに大きな示唆を受けたものである。
*11. ある種の言語行為には、『語る(TELL)』ことではなく、『示す(SHOW)』ことを主目的とするものがある。既に再三とりあげた演劇における言語行為などがまさにそれだ。役者(=発話主体I)の主眼は、「生きるべきか死ぬべきか」と語ることにあるのではなく、ハムレット(=発話人称X)が「生きるべきか死ぬべきか」と語っていることを示すことにある。また、このような『示す』ことを主目的とする言語行為の場合、その目的を「これはハムレットのセリフとして言うのですが、生きるべきか死ぬべきか」といったように発話人称Xに『語らせる』ことは、効果を失わせる──当の目的の達成を阻害する──ことにつながる。このような言語行為の場合、発話主体Iが『示す』というレベル(Aメタレベル)を、発話人称Xが『語る』というレベル(@基層レベル)に換えて顕在化させることは、構造的な齟齬を生じるのである。
*12. このような措置をとる理由を、雑駁さを懼れずに述べておくと、<X is I>か否かは、いわば当人の「心の中」をのぞき見ることができなければ、聞き手あるいは第三者にとっては直接には判定がつかないことだからであり、実際には発話(言語行為)がなされた状況・コンテクストとの勘案──他の不適切性が顕在化しているか否かと、かつ、その不適切性が発話者(発話主体I)の意図したものとみなしうるかどうかの勘案──をもとに間接的に推測するしかすべがないからである。一方、例えば、<I am X>か否かについては事情が異なり、発話主体Iが当該の言語行為を遂行しうる資格を備えた発話人称Xであるか否か(例えば、死刑の“宣告”をなしうる社会的資格を備えているか否か)は、当人の「心の中」をのぞき見ることなく、その者の社会的身分を検証するなどして直接に判定することができる。
*13. 土屋[1983]のこの論述は、Searleが発語内行為を適切なものとする条件を必要十分条件ととらえていたことを批判し、Austinがそれをあくまで必要条件とするにとどめていたことの意味合いを明らかにしようとする議論の中で行われたものである。この論述の前の文脈を参考までに引いておこう。「なんらかの条件や規則が存立しているので、発語内行為を遂行することができるという考え方自体が指示し難いものである…。なぜなら、ある特定の言語、ある特定の社会、ある特定の現実の場面における実際の言語使用が与えられない限り、規則という概念が意味をもたないからである。…〔中略〕…われわれは、サールのように、人間の行動を支配する規則があるので言語使用が可能になるという考えをする立場を去り、全体的な言語状況における現実的言語使用があるからこそ、規則が可能になるという立場に立たなければならないように思われる。そして、このような観点をとったとき、オースティンがあげた六つの条件の意味が理解できるように思われる。すなわち、不適切性という、事実としてなされた言語使用に対するいわば事後的ともいえる評価の観点においてはじめて、その行為がいかなるものであったかということを問題にし得るということである。」(ibid.:130f)
*14. このように、本来の発話主体Iとはズレてしまう発話主体I'がコミュニケーションにおいて構成されるという現象は、コミュニケーション論にとって極めて興味深く重要な現象だと思うが、ここでは論じるだけの紙幅と準備がない。稿を改めることにしたい。
*15. その意図──不適切性を示す意図──を、<X is I>と前提して発話主体Iに帰属させるとある種の悪循環が生じるからである。通常の言語行為を、I SHOW you that it is felicitous that X TELL that pと考え、<X is I>という前提のもとに、XにI SHOW you that it is felicitousを再帰的に代入してみると、I1 SHOW you that it is felicitous that I2 SHOW you that it is felicitous that X(=I) TELL that pとなる。このときには、I1もI2もともに“X(=I) TELL that p”の適切性を示していることになるから矛盾は生じない。一方、不適切性を示すことの意図された言語行為に、<X is I>を前提として同様の操作を施すと、I1 SHOW you that it is infelicitous that I2 SHOW you that it is infelicitous that X(=I) TELL that pとなり、I2は“X(=I) TELL that p”の不適切性を示していることになるが、I1は“X(=I) TELL that p”が不適切であると示すことは不適切であること(つまり“X(=I) TELL that p”が適切であること)を示していることになり、矛盾を生じる。したがって、背理法的に<X is I>という前提が妥当ではないこと、すなわち<X is not I>であることが帰結する。
*16.  例えばHutcheon[1994]。


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