4章

第4章 コミュニケーション論の新展開に向けて

前章までに、本稿は、認知科学的な観点──メッセージ解釈のコンテクスト依存性・階層性・コンテクスト動態性を射程に収めうる観点──から展開されるコミュニケーション理論のフレームワークを提示し、また、それをもっていくつかの発話の解釈過程を明らかにし終えた。そこで、本章では、これまでの専門的議論の枠を離れ、本稿のような研究アプローチからどんな視界がコミュニケーション研究に開かれうるか、その可能性について検討する。

 コミュニケーション研究は、全般的に、本稿が冒頭部で批判したようなコミュニケーション観──コード‐メッセージ・モデルの残滓とも言えるコミュニケーション観──に半ば暗黙の内にとらわれてきた。中でも、その残滓が最も色濃く留められているのは、マス‐コミュニケーション研究の分野であるように思われる。そこで以下では、従来のマスコミ研究の概要を批判的にレビューしながら、本稿の提出した研究アプローチがそこに何を補いうるものであるかを示唆してみることにしたい。

 マスコミ研究(いわゆる「コミュニケーション研究(Communication Research)」)には、よく知られている通り、大きく分けて次のような二つの流れがある。

 コミュニケーション学界は、有するイデオロギー・仮定・調査手法の性格から…二つの主な学派に分けることができる。通常、これらは「経験学派(empirical school)」「批判学派(critical school)」──これらの術語には過度の単純化のきらいもあるが──と名指される。
 ……コミュニケーション研究の経験学派は、一般に、定量的経験主義・機能主義・実証主義によって特徴づけられる。この学派は従来、概してコミュニケーションの直接的な効果の研究に重点をおき、そのコミュニケーションの置かれている広範なコンテクストにあまり注意を払わなかった。それに対し、批判学派は本質的に、哲学的なところに重点をおき、コミュニケーションの広範な社会構造的コンテクストに焦点をあて、…誰がコミュニケーションシステムを操作(control)しているかという問題に中心的な関心をもつ。
(Rogers[1985:219])

ここに述べられているように、両学派とも直接の問題関心がメッセージの解釈過程にあるわけでは、もちろんない。しかし、解釈されることのないメッセージは、受け手に何らかの“効果”を与えうるものではないだろうし(1)、受け手を“操作”しうるものでもあるまい。したがって、メッセージの解釈過程をどのように考えるかは、どちらの学派の研究にとっても大きな影響を及ぼす点であるはずだ。そこで、この点に関するそれぞれの見解をざっと追っていくことにしよう。

 経験学派は──ほとんど常套句的に批判される点の一つだが(2)──受け手がメディアのメッセージを解釈する過程にあまり関心を払わず、メッセージ‐その意味の対応関係を一対一の固定的なものとして取り扱う傾向にある(3)。まして、その解釈過程におけるコンテクスト要因が積極的に顧慮されることはほとんどない。これは、経験学派の主たるメッセージ分析技法である“内容分析(content analysis)”の方法論に端的に窺える。それは、そもそも、適用範囲をメッセージ内容の「構文論的=意味論的次元」(コンテクストに関わりなく決まる意味部分)に限定し、「語用論的次元」(コンテクストによって決まる意味部分)を除外する(Berelson[1948=1957:3f])ことから出発した分析技法なのである。もちろん、現在の内容分析が、半世紀前のフレームワークをそのまま踏襲しているわけではない(4)。例えば、Krippendorff[1980=1989:26]により「どのような内容分析もデータの(存在する)文脈に関連づけて行われ…なければならない」との主張に基づいたフレームワークも展開されてはいる。しかし、そのコンテクストの考慮は、あくまでメッセージの(字義通りの)意味を一意に同定しようという動機からなされるものであり、視野の内にメッセージ(解釈)の“階層性”や“コンテクストの動態性”が収められているわけではないのである。

 一方の批判学派は、コミュニケーションそれだけをとりだして研究するのではなく、社会的なコンテクスト(政治・経済・産業・制度・文化など)と関連づけながら捉えていこうとする。そこに言う「コンテクスト」は、したがって、本稿で言うそれ(受け手のメッセージ解釈過程に関わるコンテクスト)とは用語法を異にするものではあるのだが、メッセージ解釈に関する考え方については(少なくとも経験学派よりは)本稿の問題関心と重なる部分がある。この点について、批判的マスコミ研究の代表格と目されるカルチュラル・スタディズ(cultural studies)の考え方をみてみよう。首班的論者の一人S.Hall[1980:130]は、経験学派への批判(5)を込めつつ、「メッセージは、『効果』をもつ・『ニーズ』を満足する・『利用』される前に、先ず意味のある談話(ディスコース)として承認され、意味を解読されねばならない」と述べている。つまり、受け手に(メッセージの一方的な“受信(receive)”とは異なる)“解読(decode)”というより積極的な契機を認めるのである。これを藤田[1988:72]は「メッセージからテクストへ」「受け手から読み手へ」というパラダイム・シフトと要約しているが、そのテクストが一義的に読み解かれるものであるなら、経験学派の想定と実質的にはあまり変わるところはないだろう。ポイントは、テクストを「複数の潜在的読みとり(potential readings)の可能性を含んだ多義的(polysemic)なもの」と想定した(児島[1993:77]参照)ところにある。この多義性は、社会文化的コード〔=批判学派の言う「コンテクスト」の一つ〕の多重性・複数性に結びつけて考えられており、そのバックボーンとなっているのは、構造主義の流れを組むBarthesやEcoの記号論の見解である。したがってまた、テクスト(メッセージ)の分析技法としても、内容分析に代えて、記号論的分析が称揚されるのである(Hall[1980:131fff])。
 では、その「記号論的分析」の骨子を掻い摘んでみていくことにしよう。記号論の原点には、Saussureの構造言語学の考え方がある。彼が“シニフィアン(signifiant)”(≒記号の外形・表現形式)“シニフィエ(sifnifié)”(≒意味内容)という区別を立てたことはよく知られていよう。この記号の形式と内容の結びつきは、必然的なものではなく言語(文化)的なある種の取り決めによるものだ(同じ動物でも日本語では「イヌ」/英語では「dog」)。Barthes‐Hallの言う「コード」とはこの取り決めの体系のことであると考えればよい。したがって、ある言語社会内で複数のコードが並立していれば、一つの記号・テクストに複数の読みとりが可能になるというわけだ。Barthesはそこに“デノテーション(dénotation)/コノテーション(connotation)”という概念を絡めて一つの分析枠組(6)を仕立て上げた。Hall[1980]の採用しているのもその分析枠組である(デノテーション・コノテーションについてはBarthesとはやや考え方を異にしているが、以下では、よりシンプルなHallの考え方に拠りつつ検討を進めることにする)。

 分析の上で、…ある記号の「字義的な(literal)」意味(デノテーション)とみなされるような面と、その記号から生じうるより連合的(associative)な意味(コノテーション)を区別する…ことは有用である。……談話(ディスコース)中で組織化された記号がその「字義的な」(即ち、ほぼ普遍的に合意されるような)意味だけを意味する(signify)ことはまずない。実際の談話(ディスコース)では、ほとんどの記号がデノテーションとコノテーションの側面を結びつけているのだ。……〔中略〕……
 広告の談話を例にとろう。…広告中のすべての視覚記号は、コノテーショナルな位置づけに依存しつつ含意(implied meaning)として現れるような品質・状況・価値・暗示をコノートしている。Barthesの例で言えば(7)、セーターは常に「暖かい衣料品」(デノテーション)を意味し、よって「暖かさを保つ」という行動/価値を意味する。が、それはまた、コノテーションのレベルで「冬の到来」「寒い日」を意味しうる。また、ファッション特有のサブコードにより、オートクチュールの流行スタイルやカジュアルな服装スタイルをコノートすることもあるだろう。適当な視覚背景が設定されロマンティックなサブコードによって位置づけられれば「森での長い秋の散歩」をコノートすることもある。
(Hall[1980:133])

これをBarthes[1965=1971:197ff][1967=1972:57ff]の「入れ子」図式風に表してみると、次のようになる。(念のため断っておくが、これはBarthes自身の提出した分析図式とはやや異なる。)

ここには、メッセージ(テクスト・記号)の意味の“階層性”がある程度は視野に収められている。だが、その視野は、結局のところ、(内容分析と同じく)やはり「構文論的=意味論的次元」に限られたものであり、“コンテクスト”に関わる「語用論的次元」は外されてしまっているのである(8)。その問題点は、大まかに言えば、次のようなものだ。
 一.ここで考慮されている「コンテクスト」=社会文化的コードとは、記号そのものがそこに位置を占めている抽象的な(差異の)体系のことである。例えば、Sa:『セーター』‐Sé:“冬の到来”というコノテーションは、Sa:『半袖シャツ』‐Sé:“夏の到来”を対立項としてもつような差異の体系=社会文化的コードから生じる、と記述・説明される。だが、こういったコードを有する社会・文化であれば、常に『セーター』が“冬の到来”をコノートするかといえばそうではない。バーゲンセールで半額になった『セーター』は“冬の終わり”をコノートするだろう。異なる状況に置かれた記号は異なるコノテーション(含意)をもつ。記号が解釈されるときの認知環境が変化すると、解釈のために選択されるコンテクストも変化するからだ。つまり、記号(テクスト)が解釈されるときのコンテクストをみない限り、そのコノテーションを論じることはできないのである。言い換えるなら、そのコンテクストを捨象して適当な社会文化的コードを仮設すれば、当該の記号から恣意的にどのようなコノテーションでも取り出してみせることができるわけだ。曰く「我々の文化の深層にはこれこれのコードが存在し、ゆえにこの記号・テクストのコノテーションは云々」といった(「記号論ブーム」の時期にしばしばみられた)論じ方で。Hallがこの手の論じ方をしているわけではないが、「このレベル〔=コノテーション〕において私たちは言説中の・に関するイデオロギーの干渉をよりクリアに見てとることができる」(Hall[1980:133])と主張されるとき、その「イデオロギーの干渉」は恣意的に取り出されうるものであってはならないはずだ。この点において、Barthes流の記号論的分析は記号・テクストの解釈のコンテクスト(=コミュニケーションの“コンテクスト依存性”)を考慮しないものであるがゆえに、不十分なのである。
 二.記号・テクストのコノテーションは、必ずしも静態的な「コード」によってもたらされるのではない。例えば、街行く人のほとんどがセーターを着るほど流行していたとする。この場合、『セーター』が“流行のスタイル”をコノートするに足る「社会文化的コード」は十分成立していると考えられるだろう。その中で、似たようなセーターを着て目を伏せている人物群の中央に、スーツを着て正面を見ているモデルの写真を配したファッション広告が現れたとしよう。ここで、『セーター』はむしろ“流行遅れのスタイル”をコノートするはずだ。そしてまた、このコノテーションは、『セーター』を“流行のスタイル”としている「社会文化的コード」を変化させうるものでもあるだろう。この点において、Barthes-Hallの言う「(社会文化的)コード」もまた、コミュニケーション(受け手のメッセージ解釈)を通じて組み換えられてゆく動態的なコンテクストと考えた方が妥当なのであり、その“コンテクスト動態性”を、Barthes流の記号論(的分析)はやはり視野に収めえていないのである。

 以上、ごく大雑把にではあるが、経験学派/批判学派それぞれのメッセージ解釈(過程)に関する見解をみてきた。また、そのどちらの視角も、“コンテクスト依存性”“階層性”“コンテクスト動態性”を十分に射程に収めうるものではないことを確認した。もちろん、両学派の直接的な眼目は、受け手に対するメディア・メッセージの影響(それを『効果』と呼ぶか/『操作』と呼ぶかの違いはあるにせよ)にあって、解釈過程そのものにあるわけではないのだから、この点のみをもって両学派の研究アプローチ・知見の全体を問題視することは的外れだろうし、本稿もそれを意図するものではない。しかし、改めて繰り返しておくが、受け手はメッセージに“影響”される前に先ずそれを“解釈”しているのである。江原[1988]は、現象学的社会学やエスノメソドロジーに共通する(いわゆる「意味学派」の)観点(9)から従来のマスコミ研究をとらえ返しつつ、次のように述べている。

マス・メディアのメッセージは単に「受け手」に「受動的」に「受容される」ものではない。そのメッセージの意味の構築・構成は、「受け手」の側の「積極的」な解釈作業を必要とし、その「受け手」の作業なしにはマス・メディアのメッセージは「受け手」に伝えられない。……しかし、そのことは「受け手」に対するマス・メディアの影響力が小さいということを意味するのではない。……マス・メディアは「受け手」の行為を直接ある方向へ変化させるような力を持っているわけではないし、「受け手」に特定の行動をするようメッセージを「注入」することも文字通りの意味では出来ない。しかし、マス・メディアは確実に一つの実践を「受け手」に要請することが出来る。それは「解釈作業」という「受け手」の実践である。……この「解釈作業」は「受け手」自身の実践でありながら、それがコミュニケーション行為であるというまさにその点において、社会的規範性を帯びる。……マス・メディアの影響力とは、この「受け手」の「解釈作業」という実践を不断に「呼込む」ことにおいてもっとも直接的かつ最大の力を行使する。
(江原[1988:62])

江原はまた、「『受け手』は自ら積極的にメッセージの意味を理解するという解釈作業を行うことによって、マス・メディアにむしろより強く影響されているのかもしれない」(ibid.:53)とも言う。メッセージの解釈過程(「解釈作業」)が軽視されるべきでない理由はこの点にある。そして、それを十分に記述・説明・分析していくためには、メッセージ解釈の“コンテクスト依存性”“階層性”“コンテクスト動態性”を射程に収めうる理論枠組が必要となるである。
 とは言え、本稿の提出した理論枠組は未だ談話(ディスコース)の分析に即応用できる段階にはない。今後、さらに実際の談話(ディスコース)を分析できるだけのものに彫琢していかなくてはならない。本稿の記したのはそのための第一歩なのである。


【註−第4章】

1. 単にメッセージ刺激を繰り返し提示するだけで受け手にそれに対する選好的態度が形成されるというMere Exposure効果(Zajonc and Markus[1982])も確認されているから、あらゆる“効果”に“解釈”が先立つとまでは言えないが。
2. 例えば藤田[1988:73]は、批判学派の立場からBarthesのテクスト論(後述)を評価しつつ、経験学派の考え方を次のように批判している。「経験学派のマスコミ論では、メッセージを媒介とした送り手から受け手への意味の『伝達』が問題とされている。そこでは、送り手であるメディアが唯一の意味の作り手であり、送り手が自己=記号内容をメッセージ=記号表現へといかに巧妙に託し、受け手がどれくらい正確に読みとるかが問題にされている。それに対して、バルトは読解によってその一方向的・直線的な過程を切断し、意味の同一性を否定する。…エクリチュールとは『作者から発して読者に至るメッセージの伝達ではない……。それはとりわけ読者の声そのものなのである。すなわち、テクストの中では、読者だけが語るのだ。』」
3. この点は、認知心理学におけるスキーマ概念を応用した情報処理アプローチ(稲葉[1992]参照)をとるマスコミ効果研究などには必ずしもあてはまらないかもしれないが、一般的には強く妥当する傾向だろう。経験学派の関心は、何よりまず、コミュニケーションが受け手に与える「効果」にあるのであり、そこでは、メッセージの「意味」は所与のものとして、効果に相関する独立変数の一つとして扱われるにすぎない。
4. 例えば、Berelsonの排除した語用論的次元に関する内容分析の試み(橋元[1983b])も現れている。
5. 特に「利用と満足研究(Uses and Gratifications Study)」に矛先が向けられている。一般に、カルチュラル・スタディズの研究者は、利用と満足研究を厳しく批判する(児島[1993:83f])。
6. Barthesの理論枠組みの粗雑さはしばしば批判されるところ(例えばMounin[1970=1973:239-250])なのだが、ある種の見栄えと使い勝手の良さがある。一時期盛んにもてはやされたのは、理論そのものの妥当性・有効性よりは、それによるところが大きいように思う。
7. Barthes[1964=1980][1967=1972]参照。念のため繰り返しておくが、以下のHallの説明はBarthes自身のそれとは、デノテーション・コノテーションの考え方において異なっている。
8. この点については、カルチュラル・スタディズ内にも、語用論的視角を理論枠組みに取り込もうとする動きがある(Inglis[1993:81-105])。
9. 大まかに言えば、それは“言語なり行為なりの担う意味を自明視せず(コミュニケーションを含む)行為者間の相互行為から構成されるものと考える”観点ということになるだろうか。本来ならここで、現象学的社会学(A.Schutz)・シンボリック相互作用論(G.H.Mead、H.Blumer)・エスノメソドロジー(H.Garfinkel)などの「意味学派」諸派のコミュニケーション論も検討しておくべきだろうが、本稿の提出したような理論枠組がそこにあるわけではない(それらは確かに行為・コミュニケーションのコンテクスト依存性に多大の注意を払うのだが(山口[1982]参照)、解釈過程についての積極的な理論枠組を提出しているわけではなく、この点に関する限りは、むしろ抽象的な視角の提示に留まっている)ので省略する。ちなみに、社会学の行為論としても、シンボリック相互作用論やエスノメソドロジーを消極的に評価し、「語用論」の知見をむしろ積極的に評価する向きがある(宮台[1985])ことを一言つけ加えておく。

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