本章では、従来の語用論の研究アプローチを認知科学的な観点から一新した関連性理論について考察する。それは、コミュニケーション・メッセージ解釈の“コンテクスト依存性”“階層性”のみならず“コンテクスト動態性”をも射程に含みうるフレームワークを備えており、前章で明らかにした本稿の目的関心からして最も有効なパースペクティブを有している理論と考えられる。
認知科学が「新しい心の科学(mind's new science)」(Gardner[1985=1987])の名称としてアメリカの学界で市民権を得た1970年代後半、語用論の世界では文化人類学者のDan
Sperberと言語学者のDeirdre Wilson(以下、S&Wと略記)によって“認知”を基軸とする新しい理論が準備されつつあった。それが『関連性理論』である。この理論への関心は1986年になって出版された"RELEVANCE:
Communication and Cognition"(RLVと略記)によって一挙に高まりをみせ、現在では語用論のみならず認知科学においても重要な理論の一つとみなされている。
S&Wの履歴を簡単に紹介しておこう。Sperberはソルボンヌで民族学を修め、オクスフォードに留学。Lévi-Straussの構造主義人類学を批判的に展開した著作(Sperber[1968→1973=1978][1974=1979][1982=1984])によって(1)有名であり、イギリス人類学界の重鎮Edmund
Leachに「デカルト的合理性をイギリスの懐疑論的合理性と結合した」知性として高く評価されている。Wilsonはオクスフォードで哲学を修めた後、MITに留学し言語学のPh.D.を得る。二人はそれぞれの歩みを進める中でChomskyに強い影響を受けており(2)、関連性理論はある点ではその影響下に産み出されたものであるとも言える。
しかし、それは彼の言語理論をS&Wが直接引き継いでいるということではない。周知の通り、Chomskyは「言語能力(話者・聴者が持っている自分の言語についての知識)と言語運用(具体的な場面において言語を実際に使用すること)とを根本的に区別」し、後者は「言語学の実質的な主題となりえない」として前者の研究に専念した([1965=1970:4f])。もちろん彼は「言語の構造と、コミュニケーションの機能を含めた『言語の目的』との間には、『なんらの興味ある結びつきもない』などと」は考えなかったが、意味を伴う言語使用に「コミュニケーション、あるいはコミュニケーションを行なおうという試みさえも伴う必要はない」([1975=1979:81,87])と主張し(3)、言語運用についてもコミュニケーションを本質的なものとはみなさなかった。それに対して、コミュニケーションにおける言語事象を扱うのが語用論であり、この領域を主な舞台とする関連性理論にChomsky理論への直接的な依存がみられないのは、むしろ当然だろう。
彼らが受け継いだ点は別にある。Chomskyは「習得される言語の形式は内的因子によって主として限定される」([1966=1970:87])という主張の下に生成文法理論を提唱したわけだが、この考え方は、言語習得を刺激という外的因子の連合学習として説明するSkinnerらの行動主義を否定するものであり(4)、当時の言語研究のみならず「心」の研究パラダイムに大きな転換を迫るものだった。このことによって、Chomskyは現在の認知科学の先駆者の一人と目されることになったのである。S&Wはこういった考え方の転換とでも言うべき部分を間接的に継承している。従来の語用論は、それに則してコミュニケーションが進められる・発話が解釈される原理(=協調原則)をそもそもは社会的なものである(5)と、つまり個人に対して外的なものであるとみなしてきた。S&Wはそれを内的な認知原理として考え直したのである(西山[1992b:55])。
こういった点を含め、本稿では関連性理論を「語用論の認知科学的転回」をなしたものとして位置づけ、その位置を明確化することにこの節をあてることにしたい。以下、議論を次のような順序で進める。(1)そもそも認知科学とはどのようなものなのか?(2)認知科学的な研究アプローチが語用論に招請されたのはなぜか?(3)いくつかある認知科学的なコミュニケーション理論の中で、本稿が特に関連性理論をとりあげるのはどうしてか?
認知科学とは何か?無難に答えられるのは、心を対象とした新しい科学であること、学際的であることぐらいだろうか。これ以上となると、多くの論者が答えているものの(6)残念ながら「具体的な性格づけや中心的な研究テーマに関してさえ、まだ多分に流動的で、それぞれの研究者がこうあってほしい、という希望的意見を表明している段階」(波多野・三宅[1992:746])にある。また例えば、計算主義(記号処理)派・イメージ(アナログ処理)派・コネクショニズム(並列分散処理)派などがそれぞれに異なった心的表象モデルをたて主張を対立させていることにみられるように、良くも悪くも「グランドセオリー」がなく多種多様な流れが混在しているのが現状だ。そこでここでは、一般性を欠く懼れはあるものの、本稿なりの観点から認知科学の特徴を、それ以前の「心の科学」つまり行動主義心理学と比較しながら、簡単におさえておくことにしたい。
行動主義(behaviorism)の始祖J.B.Watsonは、
「心理学が科学であるためには、客観的に観察可能なものを対象としなければならない。したがって、主観的に意識を内観する従来の方法はまちがいであり、環境刺激と生活体の示す反応の関係を明らかにすることによって、行動を予知し統御することのできる法則・原理を見いだす必要がある」として、意識なき心理学を提唱した。そして、「行動の単位は刺激と反応の結合であり、そのもっとも単純なものが反射であって、複雑な行動はそうした結合の複合体である……」としている。(金城[1978:14f])
ここから行動主義の前提をまとめれば、(a)内観の排除による客観性の確保、(b)観察による刺激‐反応(S‐R)関係の抽出、(c)複雑な行動の単純なS‐R結合(=反射)への還元、ということになろう。行動主義は、心を入力Sに対し出力Rを返すさまざまな関数の複合体とみなすのである。
しかし、客観性を確保するためとはいえ、外に現れた行動の観察を積み重ねていくだけで内なる心のはたらきが明らかになるのだろうか?1950年代後半に端を発する「認知革命」は、誰しもが感じるこのような疑問に動機づけられていた。その「認知革命」の一端を担ったNeisserと現在の認知科学界の大御所Pylyshynの議論をもとに、先に示した行動主義の前提を反駁していこう。
まず、次の文字列を刺激として、これを声を出して読み上げる反応を考えてもらいたい。
力スタネットの力強い音
おそらく大抵の者が「kasutanettonochikarazuyoioto」という音声を発するだろう。行動主義の立場からすれば、これは、〈左端一番目の文字─f1→「ka」という音声〉〈二番目の文字─f2→「su」〉といった関数f1,f2,…の複合体として説明されることになる。ここで、一番左端の文字と右から四番目の文字に注目しよう。これらの文字は全く同じ形をしている。この同一の刺激に対して「ka」と「chikara」という異なったしかもランダムではない反応がおこされるのである。このことは、個々の刺激Sに対応する一定の反応Rの結合の複合体として刺激群ΣSに対する反応ΣRを考える行動主義のやり方では説明できない(前提(c)の否定)。今、仮に個々の文字S→反応Rを決定する過程を知覚、ΣS→ΣRを決定する過程を認知と呼ぶなら、単に知覚過程の足し合わせではない認知過程を認め、またその認知過程がより低次の知覚過程へ影響を及ぼすと考えなければ、説明できないのである。Neisser[1967=1981]は、こういった「瞬間的な知覚判断や、1秒以内の短時間の記憶の減衰などにも、実は既有の知識にもとづいた…整合的な知識構造を造りだそうとする人間の「こころ」の働きがすでにあることを、精密な実験データから明らかにし」(佐伯[1985:139])、“認知”を固有の研究対象とすることの意義をはっきりさせたのだった。
では、そのような高次の「心のはたらき」(認知過程)を研究するときに、行動主義の前提(b)にみられるような“観察からの帰納”という方法はどこまで有効だろうか?Pylyshyn[1984=1988:1-15]はその限界を明確に指摘している。目の前で車が衝突し、中から血だらけの人が這い出してくるのを見た人の反応、という例を考えてみよう。ある者は助けに駆け寄るかもしれない、別の者は電話ボックスに駆け込み119をダイヤルするかもしれない。こういった多くの反応データを集め、何%の確率でこれこれの反応(行動)をおこす、というモデルを帰納したとする。だが、映画の撮影現場で全く同じできごとを見た人にこのモデルにはあてはまるまい。ここからさらに帰納を重ねるにしても、実際の事故を見た人とロケ現場で同じできごとを見た人の反応の差を予測できるモデルになるだろうか。そのために観察可能な物理的条件を加えていくとあまりに膨大なものになろう。しかし、常識的に考えてもすぐわかるように、その差は、見た人がその事故が本物か作り事かを知っているかどうかから簡単に予測されるものなのである。が、このことは表面的に観察できることではない。行動主義は前提(a)によりこれを利用できないのである。
認知科学は、“○○をしたのは△△を知っていたから”といった、「心のはたらき」について私たちが日常的に行うような説明のしかた(7)を排除しない。そこに一定の合理性を認め、そのような説明のしかたが可能になる「心の(情報処理の)しくみ」について積極的にモデルを仮設する。そして、そのモデルの内部構制に矛盾はないか、そのモデルによって経験的データを整合的に説明することができるか、そのモデルを基にプログラムを組みコンピューターにシミュレーションを行わせることができるか(あるいは現時点では無理でも将来的には見込めるか)、などの点から、その妥当性を検証する。つまり、“S‐Rの対応関係(コレスポンデンス)”に重点をおく行動主義が《外にあらわれた心のはたらきの観察→消極的なモデルの導出》という手順を厳格に守るのに対し、“心の情報処理の過程(プロセス)”を重視し《内的な心のしくみに関する積極的なモデルの仮設→観察データなどによる妥当性の検証》という手続きにより、人間の「心のはたらき」=認知活動を解明しようとするのが認知科学なのである(8)。
次に、このような認知科学的な研究アプローチがなぜ語用論に求められるのかについて。それは、従来の語用論の枠組に、発話解釈の(心的)過程(プロセス)について十分な説明を行えるだけの道具だてが欠けているからである。これは一つには、語用論が(前節でみた通り)発話を「行為」と考えることから始まったため、ややもすれば行為する側=話し手側に視線が集中してきた(そのため相対的に聞き手側の発話解釈は軽視されてきた)ことに起因するように思われる。以下では、Grice以降の代表的な理論展開の一つLeech[1983=1987]の所論を追いながら、このことを明らかにしていきたい。
Leechの理論展開は、Griceの協調原則に『丁寧さの原則(Politeness
Principle)』(≒できるだけ礼儀に反しないような言い方をせよ)をつけ加えることから出発する。これは、協調原則だけでは「人びとが自分たちの意図するところを伝えようとする際に、いかにも間接的なやり方をすることが多いのは、一体なぜなのか」を説明できないため(ibid.:110)(9)、つまり、話し手の発話行為をきちんと説明できないためだという。例えば、次のような会話(ibid.:113)で、
A: 私のチョコレートはどこかしら?
B: 今朝、子供たちが君の部屋にいたけどね。
なぜ、Bは「子供たちがチョコレートを食べてしまったかもしれないよ」と直截的に言わずに、字義通りには協調原則(関係の格率〔=関連性のあることを話せ〕)に違反することになるような言い方をするのか?それは、直截的な言い方では子供たちを表立って悪く言うことになり、慎みに欠け礼儀に適わないから=『丁寧さの原則』に違反することになるからだ、とLeechは説明するのである。Leechはまた、話し手の発話(行為)について「ゴール‐プラン」という下絵をひき、丁寧さの原則と協調原則をそこに位置づける。上の例で言えば、Bは〈Aに子供たちがチョコレートを食べてしまったかもしれないことを伝える〉という主的ゴール+丁寧さの原則・協調原則の遵守という副次的ゴールを達成すべく発話をプランニングするものとされる。「子供たちがチョコレートを…」という発話プランは、主的ゴールと協調原則の遵守というゴールは達成できるが、丁寧さの原則の遵守というゴールが達成できない。そこでこの発話プランは却下され、「今朝、子供たちが…」という全てのゴールを満たしうる発話プランが採られるわけだ。以上のような、話し手の発話プランニングに関する説明の改善という点が、Leechの理論展開の眼目なのである。
一方、聞き手の発話解釈は、話し手の(主的)ゴールについて仮説をたて検証する過程として、次のように図式化されている(ibid.:57)。
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【図2-1】Leechの発話解釈過程に関する図式 |
先のBの発話を例に、この図式の表しているところを簡単に追っておくと:聞き手(A)に、その発話における話し手(B)の(主的)ゴールは何かという「1.問題」が与えられる。聞き手は先ず、〈話し手のゴールはその発話が字義通りに意味していること(=子供たちが今朝Aの部屋にいた)を伝えようとしたものだ〉という「2.仮説」を立てる。次に、この仮説が協調原則に照らして「3.検証」される。(この「検証」に丁寧さの原則は関わってこない。ここからもLeechの理論展開が話し手側を中心にしたものであることがわかる。)ここで、その仮説が協調原則に違反していなければ「テスト成功」であり「4.解釈終了」となる。が、この場合は関係の格率に違反しているため「テスト不成功」となり、「2.仮説」形成のステップに差し戻される。そこで、新たに〈話し手のゴールは“子供たちがAのチョコレートを食べてしまったのかもしれない”ことを伝えようとしたものだ〉という仮説が立てられれば、検証にパスすることができ、発話解釈は完了するというわけだ。
この説明が発話解釈過程の十分な説明足りうるには、次の二点が問題になるように思われる。
一つは、「3.検証」のステップに関わってくる『協調原則』が十分に明確に定義されていなければならないということだ。ここで問題となるのが『関係の格率〔=関連性のあることを話せ〕』である。関連性がある/ないということ(これが検証規準の一つになるわけだが)の定義はそれほど容易ではない。実際、「Griceは関連性を精確に特徴づけることは『非常に難しい』と認め、定義としてほとんど何も提示しなかった」(Werth[1981:130])のであり、「以来、Grice的な語用論のフレームワークにおいて…相当量の研究がなされてきたにも関わらず、語用論で用いるにふさわしい関連性のはっきりした説明は現れなかった」(10)(Wilson&Sperber[1986a:243])のである。これに対し、Leechは、自らの主張するところによれば「[関係の格率は]比較的明瞭な意味を持っている」(op.cit.:59)と述べ、次のように再定式化する。
もしある発話Uが話し手または聞き手の会話のゴールに貢献していると解釈されうるならば、発話Uは発話の場面に関連性がある。(ibid.:133)
つまり、関連性がある=話し手のゴールに貢献する・または聞き手の会話のゴールに貢献する、と定義するのである。しかし、この定義の不適切さは明らかだ。「話し手の会話のゴール」は発話解釈以前に聞き手に知られているものではない(Leechは話し手を視野の中心に置くため、この問題を見落としている)。したがって、それへの貢献を「3.検証」の規準とするわけにはいかないのである。では、「聞き手の会話のゴールへの貢献」(上の例で言えば、Aが自分のチョコレートがどこにあるかを知ること)のみをもって関連性の定義とすることはできるだろうか?このように定義できないことは、Leech自身が次のような例をもって説明している。
C: 私のチョコレートはどこかしら?
D: 電車に遅れそうなんだよ。
これはとても協力的な答えであるとは言えまい。…しかし、Dの言っていることも、DがCの質問に答えられない理由の説明であると諒解するならば、関連性のあるものとなる。…それによって、Dは(過度な)無礼さにわたることなしに、会話を打ち切ることができる…。それは、この場合、Cのゴールに貢献しているのではなくて、Dのゴールの方に貢献しているわけである。(ibid:134)
したがって、Leechの関連性の定義は発話解釈の説明に何ら裨益するところのないものなのであり、また、この『関連性』を(Leechとは別様に)明確に規定することができなければ、発話解釈の十分な説明はおぼつかないのである。
さて、もう一つの問題点は「2.仮説」のステップに関わるものである。先の図式では、最初に立てられた仮説(=話し手のゴールはその発話が字義通りに意味していることを伝えようとしたものである)が「検証」され「テスト不成功」になると、新たな仮説がたてられることになるのだった。この仮説がランダムにたてられるとするなら、妥当な仮説(検証にパスする仮説)に偶々たどりつくまでは発話の解釈に成功しないことになる。発話の解釈過程がこのように偶然に大きく左右されるとは考えにくい。仮説形成はランダムではなく一定のやり方でなされると考えるのが適当だろう。この点についての説明をLeechは一切欠いている。Leechは、あたかも妥当な仮説が自然に立てられるものであるかのように扱い、「2.仮説」というステップがどのようなものかを不問に付すのである。しかし、このステップこそが発話解釈を説明する上で最も重要なものであることは言うまでもあるまい。
以上に概観してきたように、従来の語用理論の展開は「話し手」を中心としたものであったため、発話解釈の(心的)過程(プロセス)に対する説明装置にはかなりの不備がみられる。また、それによってさまざまなタイプの発話(例えばメタファーやアイロニー)の解釈過程のもつ興味深い特質が見落とされてきたように思われる。ここに、発話解釈の心的過程についてより積極的なモデルを仮設し、認知科学的な研究アプローチを進めるべき理由があるのである。
最後に、本稿がいくつかある認知科学的研究アプローチの中から関連性理論を中心的にとりあげる理由を述べておこう。実際のところを言えば「現在の認知科学がコミュニケーションの諸様相を広範に扱えるような理論を提供できているかとというと、…まだその段階にはほど遠い」(樋口・戸田[1992:765])。関連性理論も例外ではないが、本稿の問題関心であるコミュニケーションの一様相、つまり前章1節で述べたコミュニケーションの(1)コンテクスト依存性・(2)階層性・(3)コンテクスト動態性という様相については、一定の視野を切り拓く枠組みをもっているのである。
この点を考察する前に、まずは『コミュニケーションの認知科学』を進めるにあたって重要と目されている諸論を概観しておこう。樋口・戸田[1992]は主なものとして次の六つを挙げている。発話理解については「メンタルモデル理論」「状況意味論」「関連性理論」、会話運用については「ゴール‐プランアプローチ」「会話分析アプローチ」「ゲーム論的アプローチ」である。後者から検討すると、ゴール‐プランアプローチについては、Leechの所説でみたようにその発話解釈過程への応用には多くの不備がある。会話分析は「規約化された会話の手段(move)を実際の会話プロトコルを基礎にしてその中に繰り返し現れるパターンから探し、そこから帰納的に会話の流れの構造や会話参加者の使っている会話方略を見つけようとする」(ibid.:768)という、行動主義とパラレルな方法論をとるがゆえに、発話解釈の心的過程についてはそもそも視野の内にない(無論そこで得られたデータや知見は積極的に活用されるべきだろうが)。ゲーム論的アプローチについては、「認知的視点の欠如」が最大の問題として指摘されており(ibid.:769)、発話解釈過程への応用よりむしろそこからの補完が求められているのが現状だ。
メンタルモデル理論(11)では「発話理解の過程は、まずその発話の言語表象(命題表現)を、聞き手の頭の中でメンタルモデル化されている状況や一般知識に関連づけることによって始まり、……その発話の情報を組み込んだメンタルモデルが構成されたとき、その発話は理解された」というように考える。また、ここから「各発話ごとにモデルの更新を繰り返すことによって、談話全体の構造をモデル化することができる」ものとされる(ibid.:766)。状況意味論(12)は[発話理解の]『文脈依存性』を積極的に取り込んだ意味論とされて」おり、「従来のモデル論的意味論とは異なり、発話の意味を特定するのに関係づけられる「世界」が各発話…に対応して柔軟に作り出される」と考える点に特徴がある(ibid.:766f)。これら“メンタルモデル”や“状況(あるいは世界)”を本稿の言うコンテクストと等置することもできようし、「発話ごとのモデルの更新」や「発話に対応する世界を柔軟に作り出す」という箇所にコンテクストの動態性も視野に収めようとする態度を認めることもできよう。この点で本稿はこれらの理論に積極的な評価を与えるものではあるが、やはり若干の不備を感じざるをえない。例えば、「A君は本当にすばらしい人物だねえ、話はおもしろいし、頭の回転も速いし」という発話の後、「何とも彼はすばらしい、実にすばらしいよねえ、いやはや」と続けられた談話(ディスコース)を考えてみる。“A君はすばらしい”と繰り返されることによって、それはアイロニカルな調子を帯びてくる。そして、それがアイロニ−として解釈されることによって、先行する“話がおもしろい”“頭の回転が速い”という箇所の解釈も変更される(このことをコンテクスト動態性と呼んだのだった)。先の二理論は、これをメンタルモデルの更改や関係づける状況の再構成として記述し説明する枠組みは備えているかもしれない。だが、なぜそのような更改や再構成がおこされるのか、なぜあることが繰り返し述べられることによってアイロニカルな解釈がひきおこされることになっていくのか、その心的機制に関する説明装置が不足しているのである。
さて、関連性理論については以下のようにごくおおまかな見取り図を描くことができる。まず、コミュニケーションは個人の置かれる認知状況の一つとして、参与者は認知の主体として位置づけられる(したがって、パースペクティブの中心には「聞き手」が置かれる)。S&Wは、個人を認知的な環境におかれたものとみなし、「コミュニケーションの成立の結果として[参与者の]相互認知環境が拡大される」(RLV:44)というふうにとらえる。ここにみられるコミュニケーション観を強引に図式化してしまうと下の図2-2のようになる。図中の矢印は、コミュニケーションを通じて・によって、相互認知環境が変化することを表す。この変化はもちろんランダムになされるわけではない。その変化にみられるある種の規則(性)が『関連性原則』と呼ばれるものにあたる。参与者Aは、Bとのコミュニケーションを相互認知環境に基づいて進め、また同時にコミュニケーションを通して相互認知環境を関連性原則に則しつつ改訂していくのである。
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【図2-2】 関連性理論のコミュニケーション図式 |
この関連性原則は、もちろんLeechのようにプラン‐ゴールという問題解決の図式の中に位置づけられたものではない(13)。その特徴をおおまかに述べると、コンテクストとの関わりにおいて情報処理的な観点から規定される原則であること、また、協調原則のような下位範疇をもつ複合的原則ではなく単一の原則であることだ。関連性原則そのものは、その背後に展開される複雑な理論構図に比し極めてシンプルな考え方によっている。
まず、ある個人が知覚や記憶からひきだしたり推論したりしてアクセス可能な既存の情報群のことを“コンテクスト”とする。次に、あるできごとや発話の“関連性”は、それが、既存情報群にない新しい情報をつけ加えたり・情報群の構造を強めたり・組み換えたりする効果[=コンテクスト効果]が大きいほど高くなり、その情報処理にかかる心的労力が大きいほど低くなる、と考える。つまり、関連性を心的なコスト‐パフォーマンスにおいて考えるのである。そして、コミュニケーションにおいて聞き手は話し手に対し認知レベルで次のような見込みをもつものとされる。(i)コミュニケーションに使われた刺激(音声やジェスチャー等)によって伝えられようとしている情報は、相対的に小さな処理コストで大きなパフォーマンスがえられるはずのものだ。(ii)その刺激は、同じ情報を伝えるために使われうる刺激の中で最もコスト‐パフォーマンスの高いもののはずだ。“関連性原則”とは、このような見込みのもとで発話が解釈され、またコミュニケーションにおける認知的コンテクスト(=相互認知環境)が改訂されていく、という原則なのである。
以上、ごく大雑把な記述ではあるが、関連性理論の中核、つまり関連性についての考え方の中に、コミュニケーションにおけるコンテクスト動態性が収められていることは十分に見て取れるだろう(コンテクスト依存性・階層性についてはここではいちいち確認しない)。この関連性・関連性原則を軸に発話解釈における「心のはたらき」に関するフレームワークを整えることにより、関連性理論は、従来の語用論が明らかにできなかった発話解釈の諸相、例えばメタファーやアイロニー等の解釈過程とそこにみられる興味深い特質に光をあてていくのである。